yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

林宗一郎師シテの『求塚』in「林追善能(十二世喜右衛門50回忌・十三世喜右衛門7回忌))@京都観世会館 4月8日

公演チラシ掲載のプログラムは以下である。

『求塚」の演者一覧は以下である。

前シテ(菜摘の女、実は菟名日処女) 林宗一郎

後シテ(菟名日処女の亡霊)     林宗一郎

ツレ二人(菜摘の女)        杉浦悠一朗

                  井上裕之真

ワキ(旅の僧)           福王茂十郎

                  喜多雅人 

                                   中村宜成

アイ                茂山忠三郎

笛                 杉 市和

小鼓                大倉源次郎

大鼓                亀井広忠

太鼓                前川光長

後見                大江又三郎

                  坂口貴信

                  河村浩太郎              

地謡   久田勘吉郎 関根祥丸 大江泰正 浦部幸裕 

     観世三郎太 井上裕久 観世清和 杉浦豊彦

『求塚』は観阿弥の原作で、それを世阿弥が改作したもの。舞台は摂津国、生田の里(神戸市)。「求塚」とされる場所は東灘区のものと灘区のものと二箇所あり、いずれも実家の「近所」だったので訪ねたことがある。その際、「菟名日処女」の謂れも調べたことが甦ってきた。いずれの塚もどこか触れてはいけないような侘しさの漂う場所だったのもこの謂れの所為だったのだと、合点したものである。この故事に出てくる「生田川」は現在の中央区、布引のあたりである。つい先日、新神戸駅に行くのに通った際、賑やかに桜祭りの最中だった。この故事の頃、見物も含めて若者二人の弓矢試合を見ようとさぞ多くの人が集まっただろうと想像してしまった。

例によって、「銕仙会」の解説をお借りする。

概要

早春のある日。僧の一行(ワキ・ワキツレ)が生田の里に到ると、菜摘みの女たち(前シテ・ツレ)が現れる。女たちは僧を土地の名所へと案内するが、僧が“求塚”の名を出すや、女たちは一斉に口をつぐみ、菜摘みに興じつつ帰っていってしまう。ところが、その中の一人(前シテ)だけはその場に残ると、僧を求塚へ案内する。この塚は、想いを寄せる二人の男の間で板挟みとなり入水自殺した、菟名日処女の墓であった。女は処女の故事を身の上のように語ると、救済を願いつつ姿を消してしまう。

僧が弔っていると、地獄の苦患に憔悴した姿の処女の亡霊(後シテ)が現れた。仏法の力によって視界を覆う業火の煙を晴らした処女だったが、そこに現れたのは、二人の男と、その争いに巻き込まれて死んだ鴛鴦の亡魂であった。地獄の炎で焼き尽くされ、責め苛まれる処女。彼女は果てなき闇路に迷い続ける姿を見せつつ、消えてゆくのだった。

ここではさらりと述べられている処女の入水であるが、実際は非常に生々しく、また残酷なシーンである。それを「銕仙会」の場面解説からお借りする。ツレの女たちが退場した後、一人残った女が僧を塚へと案内する場面。

5 前シテはひとり舞台に残り、古い墳墓へと案内する。

彼女は語る。

――昔、この里に住む菟名日処女へと想いを寄せる、二人の男がいました。小竹田男(ささだおのこ)・血沼丈夫(ちぬのますらお)と名乗る二人は、どちらも深く彼女を慕います。その勝劣のつけ難さは、二人の恋文が同日同時刻に届くほど。処女は戸惑います。想いの強さを比べようと生田川の鴛鴦を射させれば、二人の矢が同じ翼に命中するほどでした…。

6 前シテは自らの正体を仄めかし、姿を消します。(中入)

「そのとき私は思ったのです。あの鴛鴦の命を奪ったのもこの身の罪。生きてゆくのももう限界、いっそ身を捨ててしまえたらと…。“生きる”とは名ばかりの、この生田川の藻屑と消えた私。すると、その私を葬った塚を求め、二人の男はやって来ます。後を追って刺し違えた二人。そのことまでもが、罪業となって身を苦しめ苛むのです…」 身の上のように語る女。彼女はそう明かすと、救いを願いつつ姿を消すのだった。

求婚者に難題をふっかけるというのは、『竹取物語』、『小野小町』伝説等にも見受けられる趣向ではあるけれど、『求塚』の方は難題を出した本人にも罪禍が科せられるという点で、より残酷に思える。そしてその罪禍は本人が自らの死によって「清算」したはずだったのに、求婚者たちの自殺によって、過酷さをいや増して、地獄に堕ちた処女を苦しめ続けている。

業火に焼かれる凄まじさを語って聞かせる後シテ。再度当該シーンを「銕仙会」解説からお借りする。

8 ワキ・ワキツレが弔っていると、後シテが出現します。

いま明かされる、血塗られた里の記憶。僧は彼女の跡を憐れみ、懇ろに経を手向ける。

そのとき、塚から声が聞こえてきた。「古塚に漂う魄霊は、生々流転の世のすがた。人の心は無限に生滅を繰り返す。冥途へ去って幾星霜、とめどなく湧き溢れつづける思いに埋もれも果てず、この身を焼き苦しめ続ける罪。これが、その業火の巷なのです…」 姿を現した声の主。それこそ、菟名日処女の亡霊(後シテ)であった。

9 後シテは弔いに感謝しますが、やがて罪に苦しむ姿を見せます。

在りし日の面影は既になく、憔悴しきった処女。今なお地獄で苦しむ彼女は、僧の回向に感謝する。「有難いこと。お弔いの力によって、苦しみは少し和らぎました…」。

次第に晴れてゆく、彼女の視界を覆っていた業火の煙。しかしそのとき、彼女は恐怖に震えおののく。眼に映ったのは、自分の両手を引く二人の男。空には鴛鴦の亡魂が鉄鳥と変じて現れ、彼女の脳髄を抉り責める。塚の上には炎が上がり、地獄の鬼が現れた。たまらず柱に縋りつけば、柱は炎の渦となってわが身を包む。「あぁ、熱い、熱い…!」。

10 後シテは地獄の責め苦のさまを見せ、消えてゆきます。(終)

崩れ落ちる処女。辛うじて起き上がると、すぐさま鬼が彼女を責め立てる。八大地獄をさまよい歩き、無間の底へと堕ちてゆく彼女。そんな絶え間なき苦患の連鎖にも、やがて、業火の和らぐ時間が訪れた。しかしそれは、あらゆる物が、光さえもが消え果ててしまった暗闇の世界。孤独と不安に耐えきれず、彼女の心はまたもや業火の巷を求めてしまう。静まりかえった漆黒の黄泉路を、処女はただひとり、帰ってゆくのだった――。

生々しい処女の苦しみをまるで見えるかのような中野顕生氏の優れた解説である。

地獄の業火に焼かれ、僧の経によっても成仏が叶わない魂の苦悩を描いている点で、『阿漕」、『善知鳥」と並ぶ傑作だと思う。

私は二度『求塚』を見ているのに、その折は処女の罪禍を理解していなかった。林宗一郎師のシテはその苦しみのさまをこれでもか、これでもかというほどリアルに、時としてはこちらの肌に突き刺さる位までリアルに演じられた。合わせて、成仏できない悲しみをも表現されていて、感動した。

とくに作り物の塚のふちに手をかけて苦しみ悶える様に、処女の生の声が聞こえてきそうな気がした。能というのは苦しみをもどこか抽象的に表現するけれど、求婚者二人に責め立てられ、はたまた鴛鴦の亡魂が鉄鳥に啄まれ、さらには燃え盛る無間地獄の業火に我が身を焼かれる処女の苦しみは、見ている側に即身的に伝わってきた。その点で、『葵上』の般若の面をつけた亡霊よりもよりリアルだった。解釈がより現代的だった。つまり観客を引き込み、感動させる力が強かった。

面は後シテの六条御息所のような悪鬼の面ではないし、衣装もおどろおどろしくないのだけれど、伝わってくる苦しみの重みがズシンときた。若く美しい女性がなぜここまで苦しまなくてはならないのか、その不条理がより現実のものとして立ち上がってきていた。袖部、襟元からちらっとのぞいたのは鱗文様の衣装であり、これがある意味唯一、このシテが尋常ではない魔物であることを示していた。でも般若面をつけていないところに、作者世阿弥のこの処女への憐憫の情がのぞいている気がした。

ツレを演じたお二人は地謡を務められた杉浦師、井上師のご子息だろう。つつがなく立派に演じておられた。一つ嬉しかったのは、4年前にロンドン大のSOASライブラリーで観た『烏帽子折』(DVD)で、子方を立派にされていた関根祥丸師を観れたこと。これは以前に記事にしている。

お囃子も最高のメンバーだった。