特設サイトにアップされている写真をお借りする。
公演概要は以下。
企画・演出: 片山九郎右衛門
原作・台本: 玉岡かおる
映像監修 : 杉本博司
映像撮影 : 鈴木心演者一覧
シテ(媽祖) 片山九郎右衛門
ツレ(千里眼) 味方 玄
ツレ(順風耳) 分林道治
ワキ(山部赤人) 宝生欣哉
ツレ(従者) 宝生尚哉
アイ(船頭) 茂山逸平
小鼓 吉阪一郎
大鼓 亀井広忠
笛 竹市 学
太鼓 前川光範
地謡 大江広祐 河村和貴 橋本忠樹 田茂井廣道
橋本光史 古橋正邦 浦田保親 片山伸吾
後見 青木道喜 河村晴久 大江信行
物語
「物語」は当日いただいたチラシを写真で撮ったもので、不鮮明で申し訳ありません。ここにしか正確なあらすじが見つけられなかったので、ずぼらをしました。ちなみに、いくつかの関連サイトでは「山部赤人」が「大伴家持」になっています。劇中に使われている「田子の浦ゆ うち出てみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪はふりける」をはじめとする歌は赤人のものです。
「素晴らしい!」の一言だった。「能」というある意味「狭い空間」で成立する芸能を西洋風の大劇場に乗せることで、新たな観客層を取り込めたのではないだろうか。「能」がエンターテインメントとして自立できる可能性を示した「実験」だったと思う。普通の演劇として純粋に楽しめた人が多いように感じた。周りの反応を見渡してその感慨を持った。特に若い層が楽しそうに、身を乗り出さんばかりに見ほれているのが印象的だった。例えばフランスでのオペラ座での能公演の後の、若い観客へのインタビューなどと同じような雰囲気を感じた。
理由はいくつかあると思う。
片山九郎右衛門師の作品への想いとそれを共有する出演者たちとの絆
まず最初に挙げたいのは、発案者、主催者、主演者である片山九郎右衛門師がこの作品への並々ならない想いをお持ちだったことだろう。昨年の4月に京都館観世会館での舞台実績があった。その際に彼と舞台を共にされた能楽師の方々が今回もそのまま加わっておられるところに、九郎右衛門師を中心とした強い絆を感じた。この新作のテーマに対する九郎右衛門師の共鳴と解釈の深さを共有する演者がいての舞台。お互いへのリスペクトがなくてはここまで素晴らしい舞台にはならなかったに違いない。「気」が横溢していた。
春日明神役の野村萬斎師、ワキの宝生欣哉師とご子息の尚哉さん、笛の竹市学師と大鼓の亀井広忠師以外は全て京都観世会の能楽師のみなさま方。京都のレベルの高さが嫌という程わかる舞台だった。
演出法の工夫
能の劇場版にするには新たな工夫(theatrical devices)が求められる。それは今までの能の演出法とは全く違ったものであるはず。ちょうど歌舞伎が新たな試みとして「劇団☆新感線」的な工夫や演出を取り込んだように、ベースは残しつつも、今までの演出を一度破って、その上に新たなものを被せるということになる。一種の「脱構築」である。歌舞伎の場合は、もともと「カブク」という伝統があるので、それはさほど過激なことではない。しかし能は数百年もの間、綿々と同じ演出を通してきた芸能である。だから、ここの操作を間違えると伝統第一主義の人たちからは非難されるだろう。だからと言って今までのように続けて行くと、若い層が興味を持つことはほぼないだろう。この問題は観世寿夫師が生涯をかけて取り組まれた問題でもあった。
大劇場演出の経験を生かす
片山九郎右衛門師の経験
片山九郎右衛門師は既にこの「実験」を試みられている。それは京都ロームシアターでの『鷹姫』の上演である。私はこの劇場版『鷹姫』を2019年2月に見て当ブログの記事にしている。
この記事中に劇場版の新たな試みについて私は以下のように述べた。
西洋のオペラハウスでは当たり前の、照明の工夫があり、加えて装置の立体化が施されていた。普通の能舞台では、作り物と呼ばれる「大道具」や「小道具」が持ち込まれることはあっても、舞台設営という概念はない。だから、今回のものは、一昨年の『鷹姫』とは違ったもの、西洋的なコンセプトを取り入れ、それを下地にして設営された舞台。だから、古典的な能のお約束事を期待すれば肩すかしにあうかもしれない。でも私には、この方向性が極めて新鮮で、だからこそこれからの能の行き先の可能性の一つを指し示してくれるような気がした。もちろん一昨年にみた『鷹姫』はすばらしく、それ自体古典として自律していた。同時に、昨日の西洋的な設営を施した舞台も、それ自体古典であると感じた。能として成立していた。
この中の『鷹姫』の部分を〈媽祖〉に入れ替えれば、そのまま今回の演出に私が感じたことになる。
原作を踏まえた上で、それを能の台本にする作業は九郎右衛門師が主としてされたのだろう。京都観世会館での能公演では純然たる能の舞台となっていた。
今回の劇場版はそれを一度換骨奪胎して、新たに組み立てる作業をしなくてはならなかったはずである。
② 野村萬斎師の参加
九郎右衛門師を中心に様々な劇場版に参加してこられた野村萬斎師が一緒に取り組まれたことも成功の大きな要因だろう。私は彼が演出した『鷹姫』(@大槻能楽堂&なら百年会館大ホール)を見ていない。ただ、渡辺守章氏演出の『繻子の靴』(京都芸大春秋座、2016年12月)に映像のみで加わられた萬斎師は見ている。ただ、「語り部」の役で冒頭のシーンに登場されたのみ。実際にこの舞台に出演されたのは茂山逸平師で、彼はこの〈媽祖〉ではいわゆる「アイ」を務められている。
杉本映像とのコラボ
これらの能としては画期的な演出に、さらに杉本博司氏による映像が加わることで、より新しい可能性を拓いて見せたように思う。杉本氏の伝統芸能との映像コラボ(加えて演出)の実績は既に「杉本文楽『曽根崎心中』」(於大阪フェスティバルホール、2014年3月)で確認し、当ブログの記事にもしている。ただ、この時は劇場が三の丸ホールの2倍強のキャパで、しかも私の席は三階席だったので非常にみにくく、杉本氏の演出の良さは確認できなかった。ドキュメンタリー番組で見た折には、非常に効果的な演出法だったので残念だった記憶がある。
前場と後場との印象が随分と違ったのは、前場では背後のスクリーン映像が多く使われていたことによるのだろう。劇場版を新たに製作するにあたり、杉本博司氏が映像を監修、劇的な効果を狙う目的で主として前半部に組みこんだと思われる。公演チラシ表の海を背景にした影向の松が背景になっている能楽堂では、映像は組み込めないだろうから。私は昨年の京都観世会館での公演をみていないので、残念ながら比較しようがないのではあるけれど。
劇場のキャパの適切さ
演出を成功させるにはホールの大きさは非常に大きな意味を持つ。ちなみに三年前に『鷹姫』がかかったロームシアターのキャパは2200席で、三の丸ホールのほぼ2倍。私が今までに経験した劇場でキャパが三の丸ホールに近いのは、国内では大阪松竹座(1033)、京都南座(1086)で、他の西洋型ホールはこれの2倍くらいの収容人員になる。行ったことのある海外劇場はどれも2倍程度のキャパ。かろうじて近いのはプラハ国立歌劇場(1041)、あるいはロンドン、ナショナルシアターのオリヴィエ劇場(1160)。
能を「劇場版」として舞台化するには、大きさがクルーシャルな要素であることが今回の経験でわかった。
前場と後場との対比の妙
前場での映像を使った斬新な演出は後場では一転、能の舞台そのものが出現した。前場は暗がりに居たお囃子方、地謡方も照明に照らし出されて、いつもの能舞台の感じ。前場でお囃子の「助演」として使われたバックグラウンドミュージックもなりを潜め、聞こえるのはおなじみの能舞台の音楽。この前場と後場の対比が印象的で、退屈しない。まさに「序破急」が西洋的な舞台でも展開しているのを目撃した。
歌舞伎的要素
所作
身体全体を大きく曲がりくねらせたり、回すような所作、それは能では非常に限定的であるけれど、〈媽祖〉では後場のいくつかの場面でツレの千里眼(味方 玄)順風耳(分林道治)、さらには主役の媽祖がそれをやって見せた。九郎右衛門師の優雅な女性的な所作、そこに味方玄師のあの『猩々乱』を思わせる横滑りの所作や大胆な跳躍、これらは後場でのハイライトだった。
作り物
能の舞台では作り物は極めて地味である。かろうじて「それ」とわかる程度に設えられている。しかし、〈媽祖〉では歌舞伎を思わせる道具が使われていた。
まず、舟。舟全体のフレーム部に鮮やかな朱色板が使われていた。また帆も美しい模様の布が使われていた。普通能では舟と言えば竹で作った質素な作り物で、帆はつかない(つけられない)。また舟を曳く綱まで用意されていて、まさに歌舞伎。ミニマリズムの極地である能の事物が歌舞伎の華麗さを加えられて輝いていた。私個人としては、現代での演出法ではこういう方法も採り入れるのも大いにありだと思っているので、大歓迎である。特に「破」や「急」の場面では、こういう一点の過剰は逆に能のテーマを印象付けるのに効果的だと思う。
ささ小田原三の丸ホールサイトの当該公演サイトのURLをアップさせていただく。
https://ooo-hall.jp/event/20230115.html
そこにあった重要な解説2点。まず舞台正面に据えられた「百万塔」の説明。
公演で百万塔として使用していたものは、小田原文化財団所蔵、杉本博司作品『光学硝子五輪塔』です。
海景の納められた五輪塔は、海の女神〈媽祖〉の物語における視覚的象徴となっています。
さらにもう一点。能面「千里眼」について。
このお面は、2022年4月の初演に合わせて、新しく制作されたもの。本作に登場する<順風耳(じゅんぷうじ)>が使用する面で、桃山時代から片山家に伝わる能面を写した逸品です。
最後に極めて個人的感想。先生が地頭を務められていたのが嬉しかった。それにしても数日前には社中陣に一日中稽古をつけられた(私の下手な謡をずいぶん時間をかけて直してくださった)その後で、この地頭というのは、本当にすごい。
九郎右衛門師も二週間ほど前に六甲の稽古場でお見かけしたのだけれど、1月に入ってからは八面六臂とでもいうべき舞台をトップとしてこなしながら、この劇場版である。感嘆というか、人間を超えておられるとしか思えない。「女神」というのが頷ける。