yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

浦田保親師シテの能『仲光 愁傷之舞』in「令和四年度 第二回 浦田定期能公演」@京都観世会館 12月24日

公演チラシの表・裏をアップさせていただく。

演者に変更があり、地謡の河村浩太郎師は不在だった。

チラシ表の写真は浦田保親師のお父上、浦田保利師がシテを務められたときのものだという。小書に「愁傷之舞」とあるのは「舞の中にシヲル形がある」から。作者不詳だけれど、「武士道」がテーマになっているその内容から、江戸期に作られたものだろう。

『仲光』を見たのはこれが初めてだったのに、強烈な印象を受けた。というのも、「忠義のため身代わりを立てる」という内容が歌舞伎の「寺子屋」(『菅原伝授手習鑑』)と『伽羅先代萩』に、極めて似ていたからである。忠義のため子供の首を差し出す「寺子屋」(もっともこの場合、源蔵が差し出すのは松王丸の子、小太郎の首ではあるけれど)の源蔵。では、鶴千代の身代わりとなって八汐に惨殺された我が子千松を抱きしめて、嘆き悲しむ「先代萩」の政岡。松王丸と政岡に、我が子幸壽の首を美女丸の身代わりに差し出した仲光が重なった。

『仲光』の演者一覧と筋書は上のチラシに載っているが、誤解を受けそうなのが、「美女丸」という名である。これは少年(大人の美女ではない)であり、彼の身代わりになるのが仲光が一子、幸壽。この点でも、二人の少年が登場する「寺子屋」と「先代萩」との類似が著しい。舞台では味方團師の愛息、慧さん、遥さん兄弟が少年二人を演じた。

仲光の主、多田満仲は、息子の美女丸が武芸に打ち込むあまり学問をおろそかにしたことを怒り、家臣の仲光に美女丸を討つようにと命じる。仲光にすれば美女丸も「主」であり手にかけることができなかった。身代わりになったのが仲光の子、幸壽である。この顛末を聞いて仲光に深く同情したのが恵心僧都で、満仲に仲裁に入る。そのくだりが以下。

その御事にて候。まず御心を静めて聞きし召され候へ。美女午前を失いもう瀬戸の御使い頻りなりしに。仲光心に思ふやう。いかで三世の主君を手にかけ申すべきと思ひ。わが子の幸壽が首を切り。美女と申して御目にかけて候。さればわが子に代へて思ふ程の。美女御前の御不審免しおはしませと。

最初は怒っていた満仲もこの仲裁と仲光の「自害の決意」に心を動かされ、美女丸を許すことにする。喜ぶ仲光。祝いの舞を満仲に所望された仲光ではあるけれど、やがて「この舞が幸壽との相舞踊ならどれだけ喜ばしかったか」

(「あはれやげにわが子の幸壽があるならば。美女御前と相舞させ。仲光手拍子囃し」)と泣き崩れる。

浦田保親師のシヲル所作に、胸打たれた。ドラマ性が極めて高いもので、その点では普通の能とはかなり違っている。「先代萩」の政岡の嘆きと重なった。ただ、「先代萩」では泣いたことは皆無だったのに、この能の場面では涙が止まらなかった。歌舞伎では「お決まりの型」となっているけれど、その「型」を超えるものが能の舞台には確かに存在した。ということで、不意打ちを食らったような気持ちになった。浦田保親師の優れたドラマ再現力に打たれた一瞬だった。

味方慧さん、遥さん兄弟も子供ながら卓越した表現力だった。後見をされていたお父上も鼻が高かったと思われる。

さらに付け加えれば、片山九郎右衛門師と味方玄師がリードされた地謡が素晴らしかった。揃っているだけではなく、切々とした沖光の心情の吐露が、すんなりと観客に伝わるものだった。これ以上ないほどの高レベルの地謡により、『沖光』の心打つ場面がよりリアルに立ち上がっていた。この場に居合わせて、本当に幸運だった。