華やかな都に長居する夫と鄙に留め置かれた我が身を比べ、「憂きは心の習ひぞかし」と嘆くシテ。その「憂き」が見る者の感情の襞の隅々にひたひたと滲み入ってくる浦田保親師の演技。心が震えた。嫋嫋とした声調なのだけれど、メリハリが効いている。静の中に動が潜んでいる。息の「緩める」・「締める」の使い分けがリズム・テンポの緩急と合わさり、シテの「憂き」が舞台を覆い尽くし、舞台を支配する動的ドラマを創出している。
シテの嘆きの深度はかくも深い。しかもそれは砧を打つ所作が表すように、激しさを内包している。だから、強い未練を夫に持っていたシテがあっけなく亡くなってしまうことは一種の自死だという風に理解できてしまう。自分自身では制御できない感情。彼女はそれが業だとわかっている。砧を打つのはそういう罪深い自分自身を打っているのだ。とことん打ち据えて、最期は「儚くなってしまう」という解決法。砧は自罰的死の表象なのだろう。
都から3年帰国しなかった夫。孤閨の嘆きは恨みとなり、その恨みは帰国延期の報でさらに募る。なぜ古の唐土の蘓武の故事にあるように、離れていても私のことを思ってくれないのか。さすが世阿弥、その恨みの詞の一言一言が美しく、哀しい。詞から匂い立つエロティシズムが哀しい。以下の地謡の箇所がまさにそれ。
夏衣薄き契はいまはしや
君が命は長き夜の
月にはとても寝られぬにいざいざ衣うたうよ
かの七夕の契には
一夜ばかりの狩衣
天の河波立ち隔て
逢瀬かひなき浮舟の
梶の葉もろき露涙
二つの袖やしをるらん
二人が契ったその時のさまを目の前に浮かべるシテ。薄衣で契りあった逢瀬も今は「忌まわしい」のである。思い出になってしまった契り、それを彼女は何度も追体験しつつ、現在の捨て置かれた孤独を嘆く。
後場では亡霊となって現れる。
シテ うてやうてやと 報の砧 怨めしかりける 因果の妄執
地謡 因果の妄執の思の涙
砧にかゝれば 涙はかへつて 火焔となつて
胸の煙の焔にむせべば 叫べど声が出でばこそ砧も音なく 松風も聞えず 呵責の声のみ 恐ろしや
砧にかかる涙は火焔となり、叫ぼうとしても声も出ない。聞こえてくるのは己の呵責の声だけ。シテは、「恐ろしや」と杖をおとし、その場に座り込み両手を顔の横にあげての詠嘆になる。ここからは「六つの道(六道)」、「因果の小車」、「火宅の門」と仏教用語が連なり、「邪婬の妄執」の「罪深さ」が謡われる。
感極まったシテは「執心の面影の」とその妄執を作り出した(ワキの位置に座って入る)夫と対峙する。「せめて夢なりともなぜ帰ってきてくれなかったのか」と問い詰める。ただ、シテの執心は六条御息所のように鬼に化してしまうほどのエネルギーの強さではない。どこか諦めたような感じがあり、それが哀れをより誘う。
最終場面、シテを慰めるように笛の音が入り、そこからの地謡はまるでお経のようなsoothingな謡になる。「法華経」の読経に模された謡。砧を打った音そのものが「菩提の種」になり、それによって成仏するのだと結ばれる。
演者に格の高さが求められる演目だと思う。妄執に取り憑つかれ激しい(暴力的な)内面を吐露するシテ、でも心のうちに一種宗教的(仏教的?)ともいえる静謐さも秘めているんですよね。浦田保親師のシテはその両面の造型の仕方がみごとだった。あっけない終わり方なのに、カタルシス感が半端なかったのは、そこに理由があったのだと感じた。
ツレの若い侍女、夕霧の深野貴彦師も安定のうまさ。声が特に良かった。この夕霧、実は夫の愛人という説もあがって入るけれど、この舞台ではすんなりとシテをサポートする侍女に見えた。清潔感があった。
以下に演者一覧をあげておく。大鼓のみが石井師の社中の方。違和感がなかった。
シテ 浦田保親
ツレ 深野貴彦
ワキ 原 大
アイ 茂山忠三郎
小鼓 久田陽春子
大鼓 五藤博義
太鼓 井上敬介
笛 森田保美
後見 吉浪壽晃 山本章弘
地謡 鷲尾世志子 大江広祐 大江泰正 宮本茂樹
橋本忠樹 河村晴道 浦田保浩 大江信行