九郎右衛門師の姿が、とにかく美しい。感情移入を極力避けて、表情もおさえぎみで、ただ形、型でシテの深い恨みと悲しみを表現することに徹しておられた。もっとも面も装束も着けない舞であれば、エッセンスのみを抽出して舞うのは自然かもしれない。
見ている間はその姿を追うのが精一杯で、大まかな流れしかわからずじまい。『砧』謡本を持っていないので、記憶を辿るのが大変だった。要所要所の所作、謡をあらためようと、例のごとくネットにあがっているPlala(郡山宝生流謡会)さんの詞章を参照させていただいた。ありがとうございます。それと、2019 年4月にNHKで放映された浅見真州師のパリ公演録画を合わせて確認した(こちらは当ブログ記事にしている)。
片山九郎右衛門師の舞囃子の時間が非常に短く感じられたのは、演者がごく自然にシテに同化していたからだろう。自然体というと語弊があるかもしれないけれど、それほど役に溶け込んでいる感があった。私はどちらかというと、演じ手(舞い手)と曲(作品)との間のズレなり、ズレゆえの葛藤の痕を見るのが好きなので、そこのところは少々肩透かしを喰った。15分ばかりの舞囃子、しかもこのような重い曲の場合、そんな横道にそれた見方は邪道だとわかっているんですけどね。
この舞囃子は後場の、それも最終部であり、クライマックス部。高ぶった恨みの感情を抑えることができないシテ。ただそれは六条御息所のそれのような激しくも凄まじいものではない。もっと鬱屈して、抑圧されたもの。だから、激しい動きはほとんどない。登場したシテ、初めのうちは何も起こらない。起こさない。で、なかなか辿るのは難しいのではあるけれど、できる限り流れを再現してみる。
杖を持って立ち上がってから舞台下手まで行ったシテ。立ち止まっての述懐となる。ほとんど動きがない。
<シテ> さりながらわれは邪婬の業深き
思の煙の立居だに
やすからざりし報の罪の乱るゝ心のいとせめて獄卒阿防羅刹の 笞の数の隙もなく
シテ、ここで舞台中央に向きを変える。舞台中央に置かれている砧を見つめる。
うてやうてやと 報の砧
シテ、手で顔を覆う。
怨めしかりける 因果の妄執
シテ、何度も泣く仕草。
<地> 因果の妄執の思の涙 砧にかゝれば
涙はかへつて 火焔となつて
シテ、泣いているかのように顔をうつむける。想いの丈が身体に込められる。
胸の煙の焔にむせべば叫べど声が出でばこそ
砧も音なく 松風も聞えず
シテ、杖を落とす。
砧から顔を背けて両手を上げての恐れの所作。
呵責の声のみ 恐ろしや
裡に抑圧されていた感情が解放され、ここから扇を持っての仕舞となる。
はづかしや思ひ夫の
二世と契りてもなほ 末の松山*1千代までとかけし頼はあだ波の
あらよしなや空言やそもかゝる人の心か「あらよしなや」で感情が高ぶる。
君いかなれば旅枕 夜寒の衣うつつとも
夢ともせめてなど思ひ知らずや
怨めしや
シテ、しゃがみこむ。哀しさが胸を打つ。
ここがクライマックスで、怨霊は法華経の読経によって鎮められる。しかしこれはちょっと唐突ではある。怨霊、つまりシテの芦屋某の妻女は鎮められることを見込んで恨み言を言っていた?世阿弥作だというこの『砧』、そこに作者の思惑があったのだろうか。
九郎右衛門師の舞囃子「砧」は昨年1月に「杉浦元三郎追善能」でみて、当ブログ記事にしているが浅見真州師のフル能と比較している。やはり、この折にもシテ解釈にかなりのギャップを感じたことがわかる。
この曲の演者は以下。お囃子方も地謡方もこれ以上ない布陣。
シテ 片山九郎右衛門
笛 左鴻泰弘
小鼓 成田達志
大鼓 河村大
太鼓 前川光範
地謡 河村晴道 浦田保親 林宗一郎 大槻裕一
九郎右衛門師の『砧』、舞囃子でなく本舞台で見たいと切望している。
*1:「末の松山千代までと」は恋人の心変わりをとがめる百人一首にも入っている清原元輔(908~990)の歌、「契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 浪こさじとは」と、その本歌である「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波もこえなむ」(『古今集』詠み人知らず)が出典。