yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

橋本忠樹師シテの能『阿漕』in 「片山定期能7月公演」@京都観世会館 7月4日

素晴らしいシテだった。キビキビと若々しくて、それでいてどこか翳りがにじみ出る演技に唸った。動きのキレがみごとで、見ほれた。以下が当日の演者一覧である。

前シテ 浦の老人   橋本忠樹

後シテ 漁師の霊   橋本忠樹

ワキ   日向国の男  有松遼一

アイ   浦の男    松本 薫

 

笛   森田保美

小鼓  成田達志

大鼓  石井保彦

太鼓  前川光長

 

後見  片山九郎右衛門

    味方 玄

 

地謡  古橋正邦 片山伸吾 分林道治 大江信行

    深野貴彦 河村和貴 大江泰正 大江広祐

 

舞台となる場所は伊勢国、阿漕浦〈現在の三重県津市東南部〉。この「アコギ」という語は現代にも形容詞となって生きている。例によって銕仙会の能楽事典から概要をお借りする。

伊勢の海を訪れた旅の僧(ワキ)。そこに一人の漁翁(前シテ)が現れ、この浦は古歌にも詠まれた旧蹟・阿漕浦だと教える。その古歌に詠まれたのは、この浦の漁師・阿漕をめぐる物語。

(殺生が御法度の)この浦で密漁を重ねていた阿漕は、ついに露見して殺害され、死後もなお罪の苦しみに苛まれていたのだった。そう語り終えるや否や、にわかに風が吹き荒れて辺りを闇が覆い、漁翁の姿は消えてしまう。実はこの漁翁こそ、阿漕の亡霊であった。

僧が弔っていると、地獄の呵責に憔悴した阿漕の霊(後シテ)が姿を現した。今なお密漁への執念を捨てきれず、阿漕は網を曳いて殺生の業をくり返す。そうする内、彼の周りに現れた地獄の業火。魚たちは悪魚毒蛇と変じて阿漕に襲いかかり、冥土の呵責が彼を責め立て、追い詰めてゆく。阿漕は苦悶の声を遺し、海底に消えてゆくのだった。

概要をチラシで読んだとき、以前に見た『鵜飼』に非常に似ている感じがした。『鵜飼』でも密漁が露見して見せしめのため殺された鵜飼がシテである。こちらは懺悔の末、僧の唱える法華経によって救われるが、『阿漕』の漁師には救いはない。しかし双方ともに殺生によって地獄の業火に喘いでいる点は似ている。

その点ではどちらも仏教の教えの色濃く出た作品である。いずれも五番目者(鬼物)で、「三卑賤」の一つだとか。他1本は『善知鳥』。『鵜飼』にしても『善知鳥』にしても、殺生を悔いつつもやめることができない苦悩が全面に出てくる作品である。苦悩は非常に強く、悲しみも深い。救済というより苦悩の方により重点が置かれていて、そこがとても「人間的」である。どれも感動的作品である。

初めて見た『阿漕』。この日はシテの変更があり、橋本忠樹師のシテで見ることができて、幸運だった。それにしても急遽?の変更だっただろうに、ここまでのすばらしい演技をされるとは。京都観世の能楽師の方々の実力のすごさに感銘を受けた。橋本師は元の役割は「後見」だったので、「後見」の意味も理解できた。つまり実際の舞台でシテに何かあったとき、代役が務められるということ。そうじゃなきゃ「後見」として舞台奥に座ることができないということ。

前場は短いけれど、後場は長く、いろいろ趣向に富んだ変化を見ることができる。どの所作も美しく、キレキレで、そしてどこか軽みがあった。やっぱりお若い方なんだと思った。

 

腰痛が快癒したわけではないので、悩んだ末にプログラム中2本の能のうち後の方を選んだ。片山九郎右衛門師の仕舞、「通小町」がこの能の直前に入っていたので。見ることができて、幸運だった。先日の京都観世会霊界での「芭蕉」もそうだったけれど、あんなに美しい舞、見逃さなくて本当によかった!