yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

河村晴久師=深草少将と味方團師=小町の息詰まるドラマ in 「京都観世会六月例会」@京都観世会館6月23日

この日の演者一覧は以下。

シテ(深草少将の怨霊)河村晴久

ツレ(里女・小町)  味方團

ワキ(旅僧)     江崎正左衛門

 

笛    左鴻康弘

小鼓   吉阪一郎

大鼓   河村大

 

後見   杉浦豊彦 吉浪壽晃

地謡   樹下千慧 大江広祐 深野貴彦 田茂井廣道

     片山伸吾 河村博重 河村和重 越賀隆之

 京都観世会の公演サイトにアップされていた解説をお借りする。以下。

八瀬の山里で夏籠りをする僧の所に、毎日木の実や薪を持参する女がいた。不審に思った僧が名を尋ねると、市原野に住む者であると言って消え失せる。僧は女の言葉の端々から、今の女が小野小町の幽霊であると思い当たり、市原野へと出向く。
僧が供養をしていると、やがて小野小町の霊が現れ、受戒を乞う。すると今度は深草少将の霊が現れ、これを拒もうとする。少将は生前、小町に恋をして「百夜通い」をしたが、ついに思いを果たせず、今も地獄で苦しんでいるのであった。僧の乞うままに少将の霊は「百夜通い」の有様を見せるが、そのうちに小町が諭した「飲酒戒」を守ったことによって、悟りの道に通じ、多くの罪業を消滅させることができた二人は仏道成就を果たす。 

 

「四番目物 執心男物」に分類されるこの能、観阿弥作だという。唱導僧の原作を観阿弥が改作した物だという。とはいえ、やはり元の「唱導」の形式を残しているのだろう。衆徒を唱導に「招き入れるため」、男と女のエピソードが語られるが、これがドラマチック。

まず、小町霊が旅僧に供養を頼む。それを許すまじと香月を少将霊が登場、二人の間の葛藤が再燃する。以下の箇所。

シテ  さらば煩悩の犬となって 打たるると離れじ

地   恐ろしの姿や

シテ  袂を取って 引きとむる

地   引かるる袖も

シテ  ひかふる

地   我が袂も 共に涙の露 深草の少将 

ツレの味方團師は長身、その袂をグッと掴んで放さないシテのこれまた長身の河村晴久師。絵になっていたのだけれど、同時に少将のやり場のない無念がこちらに迫ってきた。團師の高い声と優雅な姿は小町の衰えない美貌を思わせた。一方の晴久師のしゃがれた声と性急な所作が、亡霊となってもまだ美貌の小町を恋い慕うサマを表していた。お二人ともこの能をドラマとして捉えるという現代的な解釈をしておられるように感じた。

続く場面では少将が「百夜通い」を語る。「車も使わず馬にも乗らず、蓑笠を着て杖をつき、雪降る日にも雨の日も、私は通い詰めたのだ」と。リアルでとてもシンに堪える箇所。少将への同情が湧き出る。澄まして佇んでいる小町へは、怒りにさえ感じてしまう。

元の唱導の形がどういうものであったのかは知る由もないけれど、観阿弥が目論んだことは多少なりともわかるような気がした。この二人は本当に仏道成就したのだろうか。