録画で見たパリ公演の浅見真州師シテ『砧』も素晴らしかったけれど、この『隅田川』も感動のあまり、我を忘れてしまうほどだった。完成度の高さでは類を見ないと思う。
それでいて、「どうだ!」という自己顕示欲を感じない。役に深く入り込み、同一化しているので、役の内面が自ずと顕れ出る感じ。深く入り込んでいるので、おそらく師の自我は極力最小化されている。役者によっては役と自我との葛藤をあえて見せるという人もジャンルを問わずにいるし、私はどちらかというとその葛藤の様、それが止揚される(あるいはされない)過程を確認したいと思うし、その過程を鑑賞する(appreciate)類の観客ではあるのだけれど。
だから、浅見真州師のシテはいつも衝撃である。なぜここまで己を「消す」ことができるのだろうか。「消す」作業によって、ここまでの演技を魅せるには、どういう心持ちでおられるのか。色々と想像するけれど、凡夫で力不足の私にはやはり理解が及ばない。
とはいうものの、見ている間はそういうことも忘れて、ひたすら劇中に入り込んでしまっていたのだけれど。それも狂女が息子の梅若丸が亡くなっていると聞き、嘆き悲しむところでは涙が止まらなかった。周りも泣いておられる方が多かった。以下の場面は特に心に堪えた。
シテ「のう船頭殿。
ワキ「何事ぞ。
シテ「今のお物語はいつの事にて候ぞ。
ワキ「去年三月十五日しかも今日の事にて候.
シテ「父の名字は。
ワキ「吉田の何某。
シテ「児の年は。
ワキ「十二歳。
シテ「その名は。
ワキ「梅若丸。
シテ「さて親とても尋ねず。
ワキ「おう親類とても尋ねぬよ。
シテ「のう親類とても親とても。尋ねぬこそ理なれ。その幼き者こそこの物狂が子にて候え。これは夢かや.あら悲しや。
ワキ「今まではよそ事とこそ思いしに。さては狂女の身の上かや。あら痛わしや候。まずまずかの人の旧跡を教え申そう。こなたへ渡り候え。のうのうこれこそかの幼き人の旧跡にて候。よくよくおん弔い候え。
ここのシテとワキの掛け合い部、「さて親とても尋ねず」、「おう親類とても尋ねぬよ」のところは、メロドラマ以上の感情の高ぶりがあった。「感情を煽る」と言った方がいいかもしれない。その理由の一つは、語尾のところで高くなる浅見師の声調だと思う。バイブレーションが微妙にかかりつつ、高くなる。絶妙の間を取りながら。これに「やられない」人はいないと思う。じんわりと徐々に感情が煽られるのではなく、突発事故のように嵐が襲ってくる感じとでも言おうか。
声調だけではなく、所作もある意味「過激」である。最初、足を踏み鳴らすところの激しさに驚かされた。その後の足踏みも同様である。手に持った笹を振り下ろすのも激しい所作である。激情が自ずと身体表現になっている。
亡骸を葬った塚から亡き子が登場するクライマックス。捕らえようとしてもすり抜けてしまう子供。そのときの絶望感は、手を挙げる所作に明瞭に表象されていた。内面が所作にダイレクトに出ている。
しかも、母の嘆きは唐突に打ち切られてしまう。あっけないほど唐突に。打ちのめされた母がトボトボと橋掛りを揚げ幕に向かって進むサマに、改めて涙を誘われる。
当日の演者一覧は以下。
シテ(狂女) 浅見真州
シテツレ(梅若丸)味方遙
ワキ(渡守) 宝生欣哉
ワキツレ(旅人) 野口能弘
笛 杉市和
小鼓 大倉源次郎
大鼓 國川純
後見 味方玄 大江又三郎
地謡 河村浩太郎 大江泰正 橋本忠樹 浅井通昭
古橋正邦 浦田保浩 片山九郎右衛門(頭)浦田保親
この作品は世阿弥の子、元雅作の「四番目物:狂女物」である。京都観世会のサイトより「演目解説」をお借りする。
旅人が武蔵国・隅田川の渡りに着き、渡守に舟を乞う。その後ろから、これも都よりわが子の行くえを尋ねて下ってきた狂女が着く。狂女は「名にし負はばいざ言問はん都鳥我が思ふ人はありやなしや」という『伊勢物語』の歌をひいて、都鳥にわが子の行くえを問う。渡守はこの心優しい狂女を舟に乗せ、船中で、去年ここであった話をする。昨年の今日、人買いに連れられてきた子が、疲労の末この河岸で息絶えた。その弔いの大念仏に人々が多く集っているという。実は船中の狂女こそ、その母であった。渡守は母を墓所へ案内し、泣き伏す母に弔いを勧める。母の弔いにひかれるように、子の幽霊が現れる。母は子を抱き取ろうと走り寄るが、幻のように消え去る。あとには塚の上の春草に、川風が渡るばかりであった。数多くの物狂物は、男物狂も含めて、すべてハッピー-エンドに終るが、これ一曲のみ結末を異にする。
また、浅見真州師提供のご本人の写真が載ったチラシをアップしておく。