yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「真如の月に出逢えた能『三井寺』 in 「京都観世会九月例会」@京都観世会館 9月22日

前場と後場との舞台は変わる。前場では清水寺、後場では三井寺になる。時期は8月15日の仲秋。狂女ものだけれど、『隅田川』などとは違い、狂女は息子を探し当てることができたハッピーエンドになっている。

片山九郎右衛門師のシテは穏やかだった。住僧の制止を振り切って古詩を持ち出し、鐘を撞くのに固執するところで意地を見せる以外は。「詩聖でさえ、名月に心狂わせて、高楼に登り鐘を撞くというのに、ましてや狂女の私が」と言って鐘撞きにこだわるところは、母の勁さと想いの深さが現れている。また、「狂い」を超えた理性をも感じさせる。(恐らくはさらわれて)行方不明になってしまった我が子。何としてもあいたい。情は理性を超えている。運命に逆らい、克服しようとする強い母でもある。

この母がどういうバックグラウンドの人なのかは不明ではあるけれど、ここまで古典に造詣が深い人であることから、かなりの階級の人だったことが窺える。そういう雰囲気を纏って演じられる九郎右衛門氏。勁い面と柔らかい面との双方を併せ持つ女性が立ち上がってきていた。最後がほのぼのとして終わるので、後味はとてもいい。

先ほど引用させていただいたチラシの裏面にあらすじは出ているので、ここでは割愛する。

私がこの曲を見たいと思ってきたのは理由がある。それは以前に放映された坂東玉三郎の「娘道成寺」についた彼自身の解説が頭に残っていたからである。記事にしている。

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インタビューの中で玉三郎は「娘道成寺」が能の『道成寺』だけではなく、『三井寺』に、特にその中の「真如の月」に啓発されて創り上げたと述べている。まさにその「真如の月」にこの日出会うことができたわけである。以下がその詞章。ネットに上がっている宝生流のものを使わせていただいた。ありがとうございます。

シテ  今宵の月に鐘撞くこと 狂人とてな厭ひ給ひそ或る詩に曰く
    団々として海嬌を離れ 冉々として雲衢を出づ。此後句なかりしかば 
    明月に向かって心を澄まいて 今宵一輪満てり 

    清光何れのところに か無からんと 
詞   此句を設けて余りの嬉しさに心乱れ 高楼に登って鐘を撞く 

    人々如何にと咎めしに これは詩狂と答ふ 

    かほどの聖人なりしだに 月には乱るゝ心有り 
鏡ノ段 ましてや拙なき狂女なれば 
地    許し給へや人々よ。煩悩の 夢を覚ますや 

     法の声も静かに先初夜の鐘を撞く時は 
シテ   諸行無常と響くなり 
地    後夜の鐘を撞く時は 
シテ   是生滅法と響くなり 
地    晨朝の響は 
シテ   生滅滅已 
地    入相は 
シテ   寂滅 
地    為楽と響きて菩提の道の鐘の声。月も数添ひて 

         百八煩悩の眠りの 
     驚く夢の夜の迷も はや盡きたりや後夜の鐘に 

         我も五障の雲晴れて 
     真如の月の影を眺め居りて明かさん

玉三郎も言っていたのだけれど、仏教の思想が色濃く出ている箇所である。地謡が「煩悩の 夢を覚ますや 法の声も静かに先初夜の鐘を撞く時は」を受けたシテが「諸行無常と響くなり」と応え、また地謡が「後夜の鐘を撞く時は」というと、シテが「是生滅法と響くなり」と応えるところはまさにそう。「我も五障の雲晴れて 真如の月の影を眺め居りて明かさん」と締めくくられるところも、仏教による救済を示しているのだろう。

この日の演者の方々は以下である。

シテ     片山九郎右衛門

ツレ 子方  梅田晃熙

ワキ     宝生欣哉

ワキツレ   平木豊男

       宝生尚哉

アイ     茂山忠三郎

 

大鼓     河村 大

小鼓     飯田清一

笛      杉 市和 

 

後見     大江又三郎  青木道喜

 

地謡     大江広祐 河村和貴 宮本茂樹 大江信行

       分林道治 河村和重 浅井文義 河村晴道

 

ワキの宝生欣哉師を拝見するのは久しぶり。ご子息とご一緒というのも、珍しい。飯田清一師の小鼓を聴くのは初めて。九州を拠点にしておられるようですね。地謡は安定の素晴らしさだった。