yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

片山九郎右衛門師シテの『弱法師』in「名古屋片山能」@名古屋能楽堂 9月5日YouTube配信−−令和3年10月10日まで 動画配信を継続

9月5日にもYouTube動画で見ているけれど、一昨日もう一度見直した。

配役は以下。こちらは(ローム配信の能と違い)演者名が画面に明記されていて助かった。

シテ   片山九郎右衛門

俊徳丸

ワキ   宝生欣哉

高安通俊

アイ   野村又三郎

下人

 

笛    武市 学

小鼓   後藤嘉津幸

大鼓   河村眞之介

 

後見   青木道喜

     片山伸吾

地謡   観世喜正  古橋正邦  

     分林道治  味方 團

     大江信行  橋本忠樹

     梅田嘉宏  大江広祐

 

『弱法師」は昨年2月にシテ味方玄師で京都観世会館での舞台を見ている。記事にしている。概要はそこにすでに書いているので、割愛する。

『弱法師』に常につきまとう不条理感についてはそこに記している通りである。そのある種の違和感をどこまで昇華して、観客に納得させられるかというところに、キモがあるのではと勝手に解釈している。味方玄師の弱法師は惨めさを突き抜ける崇高を具現化することで、不条理感の昇華を果たしておられた。

九郎右衛門師の俊徳丸は登場したところから、神々しいというか、ただならない雰囲気を纏っておられた。橋掛かりで佇み、ゆっくりと呟く。

それ鴛鴦の衾の下には立ち去る思いを悲しみ 比目の枕の上には波を隔つる愁いあり いわんや心あり顔なる。人間有為の身となりて。憂き年月の流れては 妹背の山の中に落つる 吉野の川のよしや世と思いも果てぬ心かな あさましや前世に誰をか厭いけん 今また人の讒言により 不孝の罪に沈むゆえ 思いの涙かきくもり。盲目とさえなりはてて 生をもかえぬこの世より 中有の闇に。迷うなり 

以前に見た折には詞章を確認しなかったのだけれど、今回YouTube動画なので、詞章確認の余裕があった。詞章はplalaさんのサイトからお借りした

それで初めて分ったのが俊徳丸には妻がいたことである。おそらく妻とも別れ、また、父にも勘当を受けることになってしまったのを、「前世の不徳から」と自身を責めている。父への怨嗟の念がまったくない。 

登場してからのシテの述懐がかなり長く、それも抑えた抑揚で語られる。この長い述懐、所作を交えて、それも一つ一つの所作に重みをもたせながら語られる。ただその抑制の重み中に激しさが覗く。他を責めるのではなく、あくまでも自分へ向かう「責め」であるのが辛い。

父の高安通俊はすぐに弱法師が息子の俊徳丸であると気づくが、人目を憚り夜になってから迎えに来ようと考えている。二人の噛み合わなさというか行き違いが以下のセリフ交換に示されている。

シテ   げにげに日想観の時節なるべし 盲目なればそなたとばかり 
     心あてなる日に向ひて 東門を拝み南無阿弥陀仏 
ワキ   何東門とはいはれなや こゝは西門石の鳥居よ 
シテ   あら愚や天王寺の 西門を出でて極楽の。東門に向ふは僻事か 
ワキ   げにげにさぞと難波の寺の 西門を出づる石の鳥居 

シテ   阿字門に入つて 
ワキ   阿字門を出づる 
シテ   弥陀の御国も。
ワキ   極楽の 
シテ   東門に 向ふ難波の西の海 
地    入日の影も舞ふとかや 

この場面、『銕仙会能楽事典』からの解説をお借りする。

時刻は夕暮れ時。彼岸の今日、日輪は真西の水平線へと消えてゆく。それは、西方浄土を心に念ずる“日想観”に相応しい日。弱法師もまた、盲目の身ながら日想観の座に連なると、遥かなる西の空に思いを馳せるのだった。「天王寺の西門から、向かうは極楽浄土の東門。今ごろは、沈みゆく日の光が浦の波間に舞い漂っているはず。盲目となる前には何度も目にした、難波浦の致景。今の景色も、きっとそうに違いない…」。

四天王寺が舞台ということもあるのだろうけれど、仏教的な死生観が強く打ち出されている。

その少しあと、「眺めしは月影の」で、舞を舞うのに扇を取り出す。杖をつきながらの舞。扇をかざしてゆっくりと舞う。昔、目が見えていた頃は「淡路絵島須磨明石。紀の海までも 見えたり見えたり」と嘆く。やがて、「見るとぞよ」で昔見た光景、風景がありありと浮かび、次第に興奮して舞い回る。が、転んでしまう。恥じつつも「げにも真の弱法師とて 人は笑ひ給ふぞや 思へば恥かしやな今は狂ひ候はじ今よりは更に狂はじ」となって、しゃがみこむ。ここ、悲しさに胸がふさがれる。

夜になって父の通俊がやってきて、親子対面が叶うけれども、それでもあの悲しさの余韻はずっと舞台に残ったままである。「明けぬ先にと誘ひて高安の里に帰りけり」となっていても、俊徳丸の喜びよりも、その前の悲嘆の方が優っている。

九郎右衛門師のシテは、弱法師という乞食になってもその出自の良さが偲ばれる品の良さである。ゆっくりとした所作、動きは、盲目であるからだけではなく、この人の生来の穏やかさを表している。面も品格の高い美しいもの。舞台上に佇んでおられるだけで、その辺りに結界ができるようなオーラを纏っておられた。

ワキの宝生欣哉師はこの役には若干お若いかもしれない。芸ではなく、外見が。通俊のある種の利己主義も醸し出しておられた。

笛の武市学師は最近京都でも時々拝聴している。お師匠の藤田六郎兵衛師が存命でおられたら、六郎兵衛師が担当されていたのかもしれない。六郎兵衛師のお弟子さんだけあり、特徴的な強い音を出される。

地謡も観世喜正師を除けば全て京都勢。安定感が半端ない。この素晴らしい舞台をYouTubeで来年まで何回も見ることができるのが、ありがたい。