yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

小和田恒氏が実質手配された昭和天皇皇后両陛下の欧米訪問について詳しく書かれている『楠田實日記—佐藤栄作総理首席秘書官の2000日』(中央公論新社、2001)

数日前の記事に小和田恒氏が雅子皇后陛下と組んで「愛子天皇」に策動しているという『月刊テーミス』の記事に異議を唱えた。今でも怒りは沸点である。小和田氏は外務省入省時から図抜けた俊英で、ずっと外務省トップのキャリアを積まれてこられた。

1971年、戦後初の昭和天皇皇后両陛下欧米訪問の際の計画、段取り、実行等の指揮をとられている。いわば黒衣の役割を果たされていたのである。タイトルにあげた『楠田實日記—佐藤栄作総理首席秘書官の2000日』(中央公論新社、2001)にそのあたりの事情が詳しい。この書籍は昨年大阪府立中央図書館から借り出してカードをとっていたのだけれど、そのままになっていた。今回、小和田恒氏を貶める例のテーミス記事への怒りが爆発し、ブログ記事にあげることにした次第。

楠田實氏は産経新聞の記者だったが、佐藤首相に請われて雅子内閣総理大臣政務秘書官に抜擢される。総理首席秘書官として、1967年から1972年まで佐藤栄作首相に仕えた。楠田が遺した日記は戦後政治史の中でもとくに重要な記録文書である。巻末の索引をあげておく。

ここから小和田恒氏に触れた部分は実に15 箇所に及ぶことがわかる。ほとんどが天皇陛下の欧米訪問の準備の打ち合わせだったことが、一つ一つ当たってみてわかった。

昭和天皇皇后両陛下欧米訪問は1971年9月27日から10月14日の17日間に渡るもので、ベルギー 英国 ドイツ連邦共和国を国際親善のためご訪問(アメリカ合衆国,デンマーク,フランス,オランダ,スイスを訪問されている。いわばかつての「敵陣」に乗り込むわけで、小和田氏が外務官僚の「裏方」として非常に気を遣われたことが察せられる。失敗は許されなかっただろう。小和田氏の超優秀が買われての「裏方」だったに違いない。当時小和田氏39歳。

この『楠田實日記』は昨年に大阪府立中央図書館(関西ではここにしかなかった)まで出向いて借り出した。「裏話」的内容の充実と臨場感に圧倒された記憶がある。これ一冊の研究だけでも、何冊か政治史研究書が書けそうだなんて思ったほどだった。

この天皇皇后欧米訪問のきっかけを作ったのが、1970年の万博で来日したベルギー国王ボードゥアン1世の弟、アルベール2世への高松宮妃の言葉だった。歓迎晩餐会において妃殿下はアルベール殿下に、「皇后さまは一度も外国訪問されていない」と訴えられたという。高松宮妃がフランス語にご堪能だったことがわかりますね。あの美智子、キコ等の「妃殿下」たちとは違って。晩餐会では外国語に精通していると同時に王族達とコミュニケーションを取るのに高い教養が要求されるんですよね。どちらもダメな美智子、キコ、馬・鹿姉妹がどれほど「国益」を損ねてきているか、一目瞭然。教養、語学に長けられた雅子さまを「幽閉」したことがそれに拍車をかけてしまった。取り返しのつかない損失。アルベール殿下は兄のボードゥアン国王にそれを伝え、それが両陛下の欧米訪問のきっかけになり、しかも両陛下が最初に訪れる国がベルギーに決まったとのこと。

両陛下訪問の3年後の1974年、なんと今度はボードゥアン1世国王夫妻が来日された。ボードゥアン夫妻を昭和天皇が羽田空港でお迎えしている写真がGettyにありました。付いた解説には天皇皇后両陛下に、高松宮、高松宮妃殿下がお出迎えとありますね。そして、天皇陛下と高松宮様の間には小和田恒氏が。

King Baudouin of Belgium Visits Japan

TOKYO, JAPAN - NOVEMBER 02: King Baudouin and Queen Fabiola of Belgium are welcomed by Emperor Hirohito, Empress Nagako, Prince Takamatsu and Princess Kikuko of Takamatsu on arrival at Haneda Airport on November 2, 1974 in Tokyo, Japan. (Photo by The Asahi Shimbun via Getty Images)

 

広く外務畑の第一線で活躍されてこられた小和田恒氏のことは、おそらくベルギー王室のみならず、他のヨーロッパの王室の方々もご存知だった。だからその令嬢の雅子さまが皇太子妃になられるというのは、ヨーロッパ王室のネットワークを通じて伝わり、大いに歓迎されていたに違いない。

だからこそ、その緊密な情報網を通じて、雅子さまが美智子前からひどいいじめを受けておられるという情報も各王族の間で伝播しているだろう。オランダ、スペイン王室の方々が雅子さまに非常に心を寄せられているのは、即位式後の晩餐会で手に取るようにわかったが、こういう事情もあったのかもしれない。美智子前のやってきたことは、二重にも三重にも日本の恥であり、国益をひどく損なってきていると言えるだろう。そういういじめに参加していた下劣な面々のことも伝わっていたに違いない。実に恥ずかしい。

ヨーロッパ王室の方々の小和田恒氏への同情も半端なかったに違いない。氏の卓越した知性と能力を評価すればするだけ、その令嬢で同じ外交畑を歩もうとされていた雅子さまがキャリアを投げ打って皇室に入ったことで、小和田ご一家にとってどれほどの損失があったかも十分に承知されていたはずである。雅子さまなら外交官として日本のために活躍され、ゆくゆくは然るべき優秀な伴侶とめぐり合われ、優秀なお子様方に恵まれ、誰もが羨むようなエリート街道をまっしぐらに邁進されていたはずである。そこが川島辰彦という被差別部落出身の男と半島出身の女を父母にもち、日本語も怪しい、知性と教養に欠ける、さらに付け加えるなら下半身で美智子のアホな次男坊を「落とした」キコとの決定的違いである。

そのキコ関連情報も、ヨーロッパ王室はしっかりと掴んでいたと思われる。あの即位記念晩餐会でのヨーロッパ王室の方々のキコへの冷淡なあしらいに、それはあからさまに示されていた。それがわからないのは、どこまでも底辺な本人と、同程度の底辺出身の低級な取り巻きだけである。彼らの問題は自分たちの底辺的思考を陛下や雅子さまに「適用できる」と考えるところ。それで「小和田氏や雅子さまが『愛子天皇に向けて策動している』」なんて言挙げができるんですね。言及するのもこちらが汚れる気がします。救いようのないほどレベルが低い。

さてさて、気を変えて元のベルギー王室関連の話題に戻ろう。ベルギー王室との交流は続く。2016年10月にはボードゥアン1世の甥で新しく国王に即位されたフィリップ国王とパオラ妃が来日された。その晩餐会での一景が以下。

パオラ王妃と秋家のアヒル口の娘たち。品がない。頭悪そう。ただただ、恥。

眞子の ティアラ値段はネックレス等含め2850万円、無駄金。佳子のティアラもほぼ同額。こちらも全くの無駄金。

  

こちらの写真は、徳仁皇太子殿下と雅子妃。雅子さまのドレスは昔のお直し。それにしても雅子さまの品の良さと美しさ。背後に場違いな傍系夫婦。平板な顔の女は出身の半島特徴がいや増して、まるで引き立て役の公開処刑状態。

最後に小和田恒氏の華麗な経歴とその評価をWikiよりあげておく。秋篠宮とその信奉者!あなたたちが何代かかっても到底到達できない、雲の上の方ですよ。低い自分の目線で論じるな!

小和田はソビエト連邦スイス米国イギリスフランスオランダ計6か国の赴任経験があり、赴任するときは家族全員で赴任した。「カミソリ小和田」と呼ばれており、外務省内で小和田と論争して勝てるものはいないと第122代外務大臣柿沢弘治は語っている。

小和田は1965年外務省入省であるが、岡本行夫(1968年外務省入省。外務省北米一課長の時に小和田の部下だった)、斎藤邦彦(1958年外務省入省)らは、国際法学会で恆が発言すると会場が静まり返って傾聴するほどであったと語り、あれほど有能な人は見たことがないと述べている。根回しも一流であり米国のベーカー国務長官、第3代ロシア連邦首相プリマコフなど幅広い人脈を持っていることでも有名である。

初代国連大使・加瀬俊一によると、小和田の実力は世界中で知られており、1991年には恆を国連事務総長にしようとイギリスを中心に欧米の外交官らが動いたことがあったという。

第58代内閣総理大臣・池田勇人大平正芳が率いた「宏池会」の名付け親である陽明学者・安岡正篤が主宰する「而学会」に江藤淳らとともに参加した。

 

<小和田恒氏学歴と経歴>

1954年(昭和29年)東京大学在学中に外交官領事官試験に合格

1955年 (昭和30年)に大学を卒業、外務省に入省

1956年(昭和31年)外務省入省後にケンブリッジ大学に留学し、イギリス法学士英語版)(LL.B.)を取得。

1959年(昭和34年)—1963年(昭和38年)外務省条約局法規課 在ソ連日本国大使館一等書記官に就任。ロシア語に堪能であるため領土問題、漁業交渉、サハリン残留韓国人の帰国問題などを担当。

1963年(昭和38年)東京大学法学部の非常勤講師に就任(在外勤務中を除く)1988年まで国際法国際機関論の講義にあたる。

以降国際連合日本政府代表部一等書記官などを経る。

1971年(昭和46年)欧亜局大洋州課長、外務大臣秘書官事務取扱

 同年9月 - 10月、昭和天皇香淳皇后欧州訪問に随員として同行

1972年(昭和47年)国際連合局政治課長

1974年(昭和49年)条約局条約課長

1976年(昭和51年)に第67代福田赳夫内閣総理大臣秘書官に就任、日中平和友好条約の作成に参加する。1979年(昭和54年)には在米大使館公使、6年前からの招聘にようやく応えハーバード大学ロー・スクール客員教授に就任し一家で渡米する。

日本電信電話公社(現:NTT)の物資調達解放をめぐる日米交渉で、ストラウス合衆国通商代表から交渉の根回し役に指名されたのが小和田で、大筋合意する立役者となった。1983年(昭和58年)在ソ連大使館公使

1984年(昭和59年)条約局長

1987年(昭和62年)外務大臣官房長

1988年(昭和63年)経済協力開発機構(OECD)政府代表部(特命全権大使)

1989年(平成元年)外務審議官(政務担当)

1991年(平成3年)外務事務次官

1994年(平成6年)国連大使などを歴任

1993年(平成5年)、長女の雅子が皇室に入内したため、同年7月に外務省を退官し外務省顧問に就任する。任期2年の外務事務次官退任後は駐米日本大使に就任するのが既定のコースであったが、人員上就任せず翌年まで顧問を務める。

1994年(平成6年)—1998年10月国連大使国連日本政府常駐代表(特命全権大使)

同時に米国のコロンビア大学ニューヨーク大学・ロー・スクール客員教授に就任し国際法教授にあたった。

2003年(平成15年)(71歳)、国際司法裁判所(ICJ)判事

2012年(平成24年)(80歳)、国際司法裁判所所長を退任

外務官僚としてトップまで上り詰められた方。小室圭や眞子の尻ぬぐいをさせられている山野内某、森某などという下っ端ではない。しかも、その優秀さを買われてコロンビア大、ニューヨーク大のロースクール客員教授として国際法の教鞭をとられた。これほどの超ど級のエリートは歴代外務官僚の中にもいなかったと思う。

海外生活が長いエリート達に共通することだけれど、「窮屈な」皇室に対する憧れは極めて小さい。昭和天皇に「近かった」小和田氏は、入江侍従長や小林侍従を辟易させた美智子の性格と行状をよくご存知だったはず。夫の明仁皇太子が美智子の傀儡に成り果てていたのももちろんご承知だった。そんな皇室に大事な娘を送り込もうとは、露ほども考えておられなかっただろう。仕方なく娘を送り出したものの、ずっとそのあとは心の休まる暇もなかったと思われる。

だから愛子さまにも同様の思いを抱かれているのではないか。超優秀な愛子さまには、その能力を存分に発揮できる場で活躍してほしいと願っておられるはず。自由も自分の時間も制限された「天皇」という「地位」に就かせたいと思っておられないのでは。でも国民が強く求めているのは「愛子天皇」であることもご承知だろう。またもや雅子さまの時と同じジレンマを感じておられると拝察する。

世の中には優秀な人を引き下ろすことで自分の劣等感の埋め合わせをする輩もいる。そういう連中が雅子さま、小和田氏に「誹謗中傷」を投げかける。そういう言動に同調する「ジャーナリスト」や「識者」などという肩書きを持つ低級な人間もいる。そういう連中を無視し、時には「黙れ!」というような世論の流れに期待するしかない。