yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

雷蔵が受肉化した(三島由紀夫短編)「剣」の「国分次郎」@神戸国際松竹1 月30日

三島の原作ということで、ずっと以前に見た作品。国分次郎の痛ましい最期ばかりが思い出されるので、今日も迷いつつ出かけた。結局耐えることができず、終演10 分前に退出してしまった。猛省。この映画もDVDを入手して再見することにしている。最近、この手の心理ドラマで「純粋な若者が汚れきった俗人に追い詰められ、その結果死を選ぶ」という筋立てに耐えられないことが多くなった。フィジカルな残虐シーンの方がまだマシ。目を瞑るなり、耳を塞ぐなりして防御の手立てがあるから。「心理的にジリジリと追い詰められる主人公」というプロットに耐性がなくなりつつある。やはり歳なんでしょう。

Wiki掲載のプロットは以下のようになっている。

大学剣道部主将の国分次郎は強く正しく、決然とした姿勢がその剣や生活にも行きわたっているような青年である。後輩で一年生の壬生は次郎を尊敬し、次郎のようになりたいと思っている。次郎の同級生の賀川は、主将として迷いのない次郎の言動がうとましく、傲慢とも感じ、その美しい微笑に嫉妬していた。次郎も賀川も同じ剣道四段だったが、審査の厳しい大学での段位では賀川は三段だった。大学の段位が四段の次郎は、もし連盟の査定を受ければ楽に五段がとれる実力であった。しかし次郎は決して連盟の査定に出ようとはしなかった。そんな余裕のある次郎に賀川は重苦しさと感じ、時あらば彼に反抗し、自分の流儀を主張したいと思っていた。

剣道部の夏の合宿は西伊豆田子という漁村で行なわれることとなった。合宿場所は円隆寺という寺である。主将・次郎の統率の下、海で泳ぐことは禁じられ厳しい稽古が続けられた。合宿8日目に部長の木内が船で着くという電報があり、次郎と副主将らが迎えに出た。そのとき、賀川が、時間が十分あるから次郎がいない隙に海へ泳ぎに行こうと皆を誘う。うだるような暑さの中に投げ入れられた誘惑に皆は乗ったが、壬生だけは断った。しかし、木内や次郎たちが予定より早く車で戻ってきた気配がすると、壬生は急に、1人だけ規律を守った自分を次郎は偽善的に見るのではないかと考え、急いで皆のいる海へ駆けていった。

皆が海から帰ってきた時には、すでに木内と次郎らが本堂にいた。賀川は木内の命令によって東京へ帰らされる罰を受けた。反抗的な賀川は、うなだれる次郎を烈しい目で見つめた。夕食の後、次郎は壬生に、「お前も皆と一緒に海へ行ったのか」と訊ねた。壬生は自分も海に行ったと晴れやかに嘘を言った。

合宿の最後の晩、納会の演芸のさなかに次郎は席を立って行った。稽古着に竹刀を掲げて出て行くのを部員の1人が見かけていたが、夜中になっても戻らないので騒ぎになった。皆で手分けしてあたり一帯を探すと、裏山の頂きの林の中で、腕に竹刀を抱え仰向きに死んでいる次郎を、壬生を含む一隊が発見する。

 Wiki経由で二人の研究者の解説を挙げておく。

佐藤秀明氏

三島は、<もつとも古くもつとも暗く、かつ無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」>を(国分を通して)掘り起こしている。

 

松本徹氏

(この時期の三島は)思想イデオロギーを越えた、「われわれの内を強く流れる心情とでも言うべきもの」へと関心を向けていた。また、ささいな裏切りも許さず自決した主人公の最後は、「剣の強さがガラスのように繊細で透明なものとなり、砕け散るところ」である。

二人が共通して注目しているのが、「日本人的な心情(こころ)」である。それは強靭であると同時に、極めて繊細かつ脆いもの。それこそが原初的日本人のこころだとご両人が捉えているところに注目したい。それを確認することで、なぜ国分が自死を選んだのか、その本質に近づけると思う。

その心情とは「誠」というある意味捉えどころのないもの。しかし国分次郎にとっては「誠」こそが自らの生の拠り所であり、存在意義だった。そこにはいささかの妥協もない。1ミリでも妥協してしまえば、そのほころびから存在自体の崩壊を招くことになる。「そんな純粋さなんて意味がない。世間は塵芥にまみれている。現実を見ろ!」なんていうのは、彼には通用しない。強靭であると同時に世俗観点からみれば繊細で脆いもの。それが「誠」。

ここに原作者三島の想いを重ねるのは、自然な流れかもしれない。彼が監督・主演した映画『憂国』の切腹シーンの床の間に飾られていたのは「至誠」の軸だった。主人公の青年将校に三島の想いが重なる。三島が最終章に「自決」という道を選んだのは、この「至誠」が現世では手の届かないはるかかなたの価値観になってしまったことへの絶望だろう。

そしてこの国分次郎。仲間の裏切り、それも俗っぽい欲望からの裏切りなんて深刻に捉えるものではなかったのかもしれない。ただ、強い絆で結ばれた同志である壬生のそれ(実際は違ったにせよ)は、次郎にとっては許容しがたいものだった。次郎は壬生が他の部員と行動を共にしなかったと、わかっていたのかもしれない。しかしそこで己を偽ってしまったことへの失望は計り知れなかった。国分次郎にとっては白か黒なのであり、その決断こそが全てで「曖昧」はありえない。この妥協のなさ。曖昧の不可能。

この短編の映画化を強く望み、三島とも直接交渉したという雷蔵。彼がなぜそこまで国分次郎を演じたかったのか。しかもすでに齢三十を超えた身で。彼の存在のあり方に国分次郎が重なったからだとしか思えない。しかしそれはそれであまりにも痛ましい。

映画を最後まで見届けることができなかったけれど、ビデオを入手することにした。三隅監督三剣戟作品「剣」、「斬る」、そして「剣鬼」の三作品。「斬る」は今日見てきた。これも「至誠」がテーマの作品だった。