yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

市川雷蔵の冨樫 in 武智鉄二演出『勧進帳』@日生劇場 1964年1月

配役・スタッフは以下(by 「歌舞伎データベース」)。

配役

武蔵坊弁慶 = 坂東鶴之助(4代目)

源判官義経 = 市川猿之助(3代目)

富樫左衛門 = 市川雷蔵(8代目)

亀井六郎 = 市川団子(4代目)

片岡八郎 = 中村太郎(2代目)

駿河次郎 = 澤村六郎(2代目)

常陸坊海尊 = 市川猿三郎(初代)

番卒一 = 茂山七五三

同二 = 茂山千之丞

同三 = 川口秀一郎

太刀持 = 小泉肇

後見 = 中村明

 

武智鉄二プロデュース=演出 

田中佐十次郎連中出演 

武智鉄二  演出

観世栄夫  監修

遠山静雄  照明

釘町玖磨次 装置

武智の「雷蔵愛」が強く感じられるこの配役ではある。雷蔵は忙しい映画の撮影を抜けてこの舞台を務め上げた。ただ、歌舞伎役者に交じっての舞台にはかなり疲れただろうと想像できる。彼の口跡は他役者と同じく、それ以上に立派なものだったに違いないけど、なにしろ旧弊な歌舞伎界。おいそれとは認めなかったはず。いくら武智の肝いりでも。それを思うと、胸が痛む。もうこの頃から雷蔵には体の不調があったと考えられるから。でも「なんとしても雷蔵の記念になる歌舞伎の舞台」をプレゼントしたい武智の執念も見て取れる。この公演動画はないのでしょうか。舞台は一過性だと信じていたであろう武智。雷蔵も歌舞伎に対しては同様の姿勢で臨んだはず。とはいえ、やはり惜しい!

この公演以前にすでに能楽と歌舞伎との交流が武智歌舞伎という場で実現していたことを、ネット検索で先ほど知った。それは片山幽雪(当時片山九郎右衛門)師の日経に掲載された「私の履歴書」(日経新聞2005年12月11日記事)からである。元のRAIZOサイトものをリンクしておく。

武智歌舞伎

その一部を引用させていただく。

「歌舞伎役者と親しく 我が家が演技指導の場に」「私の履歴書」

このいわゆる「武智歌舞伎」は八代坂東三津五郎(当時は蓑助)さんが指導し、様々な分野の人が協力した。両親も第二回公演だったか昭和二十五年(1950年)五月、『勧進帳』『妹背山道行』を上演する際に二人そろって演技指導を頼まれた。『勧進帳』は能の『安宅』を題材としているので父の博通に、『妹背山道行』は「全部井上流の舞でやらせたい」から母八千代にというわけだ。

 

稽古場所は我が家の新門前の敷舞台などがあてられ、出演する富十郎さん、市川雷蔵(当時は莚蔵)さん、片岡我当(同、秀公)さん、少し後には藤十郎さんもいらっしゃった。父は「他流も見た方が勉強になる」と、金春流の桜間龍馬(後の金太郎)さんにも来てもらうほどの気の入れようで、足の運び方に始まり縷々指導していた。

 

母は男性に教えるのは初めてでとまどっていた。それに井上流は下半身の安定、つまり「おいど(腰)おろして」を基本とするので、皆さん歌舞伎の舞踊と勝手が違って「うんうん」言いながらやっておられた。私は人のことを言える立場になかったが、稽古を拝見して「芸に携わる者に必要なのはたゆまぬ努力」と再認識させられた。

 

「武智歌舞伎」の方々とは以後もお付き合いが続いた。我当さんは、別途、稽古に足を運んでこられ、母は「最初の男弟子」と言っていた。雷蔵さんはお住まいが高雄口の別宅に近く、私が一時期、仕舞を手ほどきした。また、雷蔵さんが映画で信長を演じた時、「人間五十年、下天の内を・・・」の謡の吹き替えをしたこともある『敦盛』は能ではなく幸若舞の『敦盛』だから、お手の物ではなかったけれど頼み込まれてだった。

そういえば、幽雪師のご子息の現片山九郎右衛門師が公演で「天王寺屋さん(中村富十郎丈)」がよく訪ねてきておられた」と仰っておられたことを思い出した。富十郎さんは鶴之助さんですからね。ずっと前からのお付き合いなんですね。なんか、訳もなくうれしくなってしまった!

それに雷蔵に仕舞を指導されたのこと、こちらはうれしいと同時に、納得感がある。雷蔵に能の手ほどきをしたいという、武智の念のようなものを感じてしまう。武智にとって芸能の「完成形」は能だったのだと確信しているから。

だからこそ、この1964年の『勧進帳』の舞台を見てみたかった!