yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

片山九郎右衛門師シテの能『屋島』in 「能を楽しむ会」@京都観世会館9月12日

『屋島』は以前二回フル能で見ている。一度目は味方玄師のもの、二度目は林宗一郎師のもので、いずれも修羅道に堕ちた義経の苦しみとそれを補って余りある武勇の煌めきがリアルに描出されているのに感動した。林宗一郎師シテのものは当ブログ記事にしている。

www.yoshiepen.net

関西セミナーハウスの古い能楽堂の舞台。2年前の感興が昨日のことのように思い出される。なんと月日の経つのが速いことか!一瞬一瞬を慈惜しみつつ鑑賞しなくてはならないんですね。改めてその想いが強くなった。

この日の『屋島』、修羅能にしては救いの境地を描き出したものに思えて、幾分かホッとした。

義経の武将としての矜持、同時に暗示される彼の末路。この二つが綯い交ぜになり、見るものに迫ってくる。武将としてなんとしても流れる弓矢を手に収めたいという気持ち。計算を外れた無謀。これらが彼の未来を予見させている。その幼さというか「純さ」が、いずれ兄頼朝にとっては危険なもの、排除すべきものとなってしまった。なぜなら「英雄」を表象しているから。しかし義経には兄のそういう計算は理解できない、というか理解の範疇外のもの。そこに彼の悲劇があった。この弓矢の一件そのものが、義経の将来を暗示している。と同時に、彼の栄光を確かなものとして示している。この矛盾!その矛盾を描き出している点で作者世阿弥のすごさがわかる。

九郎右衛門師の義経はどこか諦観が感じられた。己の運命というか宿命を受け入れつつ、それでもなお武将としての誇りを、一つの形として見せるという意思があった。この意思の強さがあの強い所作になったのだろう。その強さの後ろに仄見える「退く想い」のようなもの。それが強烈に迫ってくる舞台だった。この「退く」雰囲気を出せるのは、さすが九郎右衛門師だと納得した。

当日の演者一覧は以下。

シテ    片山九郎右衛門

ツレ    橋本 忠樹

ワキ    宝生 欣哉

アイ    茂山 逸平

 

笛     左鴻 泰弘

小鼓    吉阪 一郎

大鼓    河村 大

後見    河村博重  大江信行

 

地謡    古橋正邦  味方 玄  片山伸吾  

      分林道治  橋本光史  梅田嘉宏

公演終了後に九郎右衛門師が当日の衣裳の解説をしてくださった。普段聞けないお話で、とても興味深かった。後場のシテ、義経の衣裳は素晴らしいのひとこと!片山家に伝わるものだとか。笹竜胆が源氏の「花」なんて、全然知らなかった自分が恥ずかしい。