yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

舞台全てが若々しくステキだった「観世青年研究能」@京都観世会館 8月9日

お若い能楽師の方々の清新な能舞台。この息苦しいコロナ禍下で、爽やかな風が吹き抜けた感があった。しかもとても熱気に溢れていて、パワーをいただけた。さすが京都観世である。若手の方々もこの実力。能二本に狂言が一本という通常の構成だった。三密を避けるという昨今の制約のため、狂言がカットされることがあったのが残念だったので、とてもうれしかった。チラシ表と演者一覧の載った裏をアップさせていただく。

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能の『賀茂』の前場、里女のシテが舞台前に迫ってきて、すっと頭を下げたとき、ドキッとするほどのハレ感があった。妖艶というのではなく、涼やかな感じである。ここで本性がわかる仕組みになっている?後場での別雷神のシテは荒々しい男神というよりも、ゆったり感があり、若い神の雰囲気。どちらも所作に初々しさが前面に出ていた。それでいて、声は素晴らしくハリと奥行きのある謡である。あっという間に終わってしまった気がした。多少本来よりも短めになっていた(?)のが残念である。ワキ方のお二人はよく知った?若手の小林努師と有松遼一師。お顔が見えるとなんか嬉しくなる。お囃子も若手が打ち揃ってのパワー溢れるものだった。前川光範師が太鼓を担当されていたのも、嬉しかった。

狂言の『附子』は一度見たことがあるのだけれど、思い出せない。このブログにも記事を書いていない。ともあれ、山本善之師と岡村宏懇師の絶妙な掛け合いが、絶品だった。茂山流なのだけれど、おそろしく「今風」の感じ。もちろんいい意味で。吉本とは言わなくても何かそういう要素を感じた。今の若い人には大受けだろうと思う。非常に真面目に演じておられ、どこまでも折り目正しく古典なのだけれど、なんかオカシイ。お二人の力演、観た甲斐がありました。

最後の番組は能『車僧』。これもちょっとオカシイ能。天狗の太郎坊が「車僧」とあだ名をつけられた禅僧に(厚かましくも)禅問答を仕掛けるのだけれど、論破されて愛宕山に帰ってゆくという筋立て。何を勘違いして勝つと思ったのか。シテの天狗はおそらくかなりの自信家だったのでしょうね。

舞台は西嵯峨野。ワキの車僧のモデルは嵯峨野の海生寺に住まいしていた深山正虎和尚だとか。「破れ車に乗って」というのは、六条御息所を思い出させた。そういえば、御息所が伊勢斎宮になる娘と籠もったのが嵯峨野の野宮でしたよね。色々な伝説、歴史のある場所を舞台にしているのも、面白い趣向。

お囃子方も太鼓の井上敬介師を除いて若手陣。ハリのある音色が響き渡った。楽しい時間で、こちらも終わるのが惜しかった。

京都観世会館は「厳重に」席が管理されている上、プログラム間に休憩が挟まれているので、過密になることはない。ここまでやるの?というくらいすごい努力されていて、安心して観劇できます。