yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

松井美樹師シテの能『道成寺』in「杉浦元三郎七回忌 追善能」@京都観世会館 1月19日

あまりにも人口に膾炙した演目。能楽師の方はその「披き」に『道成寺』を演じることが多いとか。松井美樹師がそうだったかは、確認していない。おそらく初めてではなかったと思う。とても落ち着いて演じておられたから。

私が能の『道成寺』を実際の舞台で見るのは初めて。DVDでは観世清和師、梅若六郎(現梅若三郎)師、塩津哲夫師、そして観世喜正師のものを持っていて、再三見直している。ただ、これらは時間の都合上、前後を端折ったものが多く、フルで一度見たいと願って来た。今回、それが叶った。

興味があったのはやっぱり「乱拍子」。実際にはどういう風になっているのだろうと、興味津々だった。そして、いい意味で予想は裏切られた。こんなに長く、緊張感満載のものだったのだ。舞台隅々にまで張り詰めた空気。シテと小鼓、そして笛の息詰まる掛け合い。ポール・クローデルが「咆哮」と評した小鼓方の鋭い掛け声。それに合わせて素早く前に出るシテの足袋先。これらが一体となって、客席に迫ってくる。針一本落ちても聞こえるかというようなギリギリの緊張感。そこに参加を要請される客。思わず力が入ってしまう。

この緊張感がかなり長く続いたにもかかわらず、短いように感じた不思議。でもやっぱり長かったのだ。終わったのは予定を40分もすぎた午後5時40分。非常に充実した、時間を過ごすことができた。どこか異次元からこちらの世界に戻って来たような、そんな感じがした。やはり聞きしに勝る凄さだった。これを演じるのがシテ肩の「卒業試験」と言われる所以が了解できた。見ることができて感謝。

Wikiからの解説をお借りする。以下。

道成寺』 (どうじょうじ) は、紀州道成寺に伝わる、安珍・清姫伝説に取材した能楽作品。観世小次郎信光作といわれる『鐘巻』を切り詰め、乱拍子を中心に再構成したものという。後にこの能の『道成寺』を元にして歌舞伎の『娘道成寺』や浄瑠璃の『道成寺』、琉球組踊の『執心鐘入』などが作られた。

  • シテ: 白拍子(実は女の怨霊)
  • ワキ: 住僧
  • アイ: 能力

安珍・清姫伝説の後日譚に従い、白拍子が紀州道成寺の鐘供養の場に訪れる。女人禁制の供養の場であったが、白拍子は舞を舞い歌を歌い、隙をみて梵鐘の中に飛び込む。すると鐘は音を立てて落ち、祈祷によって持ち上がった鐘の中から現れたのは白拍子が蛇体に変化した姿であった。は男に捨てられた怒りに火を吹き暴れるが、僧侶の必死の祈りに堪えず川に飛び込んで消える。

小鼓との神経戦である乱拍子(間をはかりながら小鼓に合わせ一歩ずつ三角に回る。大きな間をとるので、ラジオ放送では放送事故 - 無音時間過長 - になったこともある)から一転急ノ舞になる迫力、シテが鐘の中に飛び込むや鐘後見が鐘を落とすタイミング、鐘の中で単身装束を替え後ジテの姿となる変わり身と興趣が尽きない能である。

この解説にあるように、急の舞になって、その後鐘を落とすタイミングが非常に重要なのである。少しでも手はずが違えば怪我をする可能性が大だから。それもあって、鐘後見を始めとして、異様なピリピリ感が終始舞台に満ちている。ただ、今思い返せば、京都観世で「失敗」なんてあるはずもなかったのではあるけれど。完璧な息の合わせ方、完璧な飛び込みだった!

鐘に飛び込んだ時には会場から拍手が怒っていた。鐘が上がってそこに凛然と座位で現れた松井師を見た時、「わぁー、よかった!」と叫ぶ声が聞こえたような気がした。会場との一体感が他のどの演目よりも濃厚。そこにも『道成寺』が普遍性を持っている所以があると感じた。

今広く知られている「能」よりもずっと前に成立していた、いわば能の古層を維持している作品だとか。元にあった『鐘巻』という作品を再構成、そこに乱拍子を組み込んだ作品。観世小次郎信光作だといわれている。納得である。非常に派手で、技巧に飛んだ作品だから。これが残っていてくれて、よかった。

以下に当日の演者を。

シテ白拍子(実は怨霊) 松井美樹

ワキ 住僧       原 大

ワキツレ        有松遼一

ワキツレ        原 陸

 

アイ 能力       茂山千三郎

            茂山宗彦

 

小鼓          吉阪一郎

大鼓          山本哲也

太鼓          井上敬介

笛           杉信太朗

 

後見    大江又三郎  味方團  林宗一郎

鐘後見   杉浦豊彦  深野貴彦  大江信行 大西礼久 宮本茂樹

狂言鐘後見 茂山逸平  井口竜也  松本薫  鈴木実

 

地謡    金子 昭  大江泰正  田茂井廣道  橋下光史

      越賀隆之  塚本和雄  井上裕久  山本章弘

乱拍子の場面、吉阪師の小鼓の息詰まる演奏が素晴らしかった。杉師の笛の鋭さも耳に残った。そして何よりも賞賛に値するのが鐘後見と狂言鐘後見だった。狂言方鐘後見が舞台に鐘を運び込む。その後鐘を吊り上げ固定する。初めて見たので感動した。その後屈強の(?)若手が綱で鐘を固定する。シテが鐘に跳び混むところでは、鐘をシテの上に落とす。鐘の中のシテの衣装替えが終わったら、鐘を再び吊り上げる。シテが揚幕に去ってから、狂言の後見が再び登場、鐘を運びさる。この鐘の存在感がすごく、こちらが主人公のようにも見えてしまうほど。 

演者は狂言方、後見を除き全員が長袴。この演目が極めて儀式性が高い演目であることがわかる。

歌舞伎で「なんたら道成寺」というものと決定的に違うのが、その緊張感だろう。歌舞伎は白拍子花子の踊りの華麗を踊り上げるところに重点が置かれている。あくまでも華やかに、めでたくというのがその趣旨だろう。一方能の方は、シテの白拍子の嫉妬からくる妄執に重点が置かれている。暗く、暗く沈んでゆくシテの情。それが行き着くところまで行って暴発するシナリオ。客の心臓もパクパク、ドキドキして、のんびりと舞を楽しむことはできない。楽しむことを許さない。でも終わって見ると、やっぱり楽しんでいたことに気づく仕掛け。こんな作品を書くなんて、信光の天才を思う。 

昨年11月、急に思い立って道成寺を訪問した。道中が長く辟易したけれど、やはり行っておいてよかった。この物語、そして脳の『道成寺』とつながりができたような気がしたから。境内には歌舞伎、能の『道成寺』を今まで演じてきた役者の姿が所狭しと貼られていた。

以下は山門内側から眼下に広がる光景を写したもの。

f:id:yoshiepen:20200121001526j:plain