yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』より「すし屋」in 松竹第歌舞伎巡業@加古川市民会館11月21日

以下、歌舞伎美人からお借りした配役とみどころ。

<配役>

いがみの権太      中村 獅童
梶原平三景時      中村 亀鶴
弥助実は三位中将維盛  中村 萬太郎
娘お里         中村 米吉
弥左衛門女房おくら   中村 梅花
若葉の内侍       澤村 宗之助
鮓屋弥左衛門       片岡 亀蔵


<みどころ>

 下市村の釣瓶すし屋を営む弥左衛門は、その昔、助けてもらった平重盛への旧恩から、その子息の維盛を使用人の弥助として匿っている。その弥左衛門の家に、今は勘当の身の上のいがみの権太が、母のおくらを騙して金を手に入れようと現れる。一方、弥助に恋していた弥左衛門の娘のお里は、ある晩一夜の宿を借りようと訪ねてきた親子が維盛の御台所若葉の内侍と、一子六代である事実を知り三人を逃がす。しかし、弥助の素性を知った権太が褒美目当てに訴人しようと駆け出していくところへ、維盛詮議に梶原景時がやってくる。権太は、持参した維盛の首と縄にかけた内侍親子を突き出す。その所業に怒った弥左衛門が思わず権太を刺すが、苦しい息のなか権太が明かす真実とは…。
 歌舞伎三大名作の一つとして有名な『義経千本桜』のなかでも「すし屋」は、いがみの権太と呼ばれるならず者が迎える悲劇の結末に、親子の情と悲哀を感じる作品です。お里の口説き、すし桶を構えた権太の引込み、そして権太が本心を明かす「モドリ」といわれる趣向など、みどころあふれる作品です。

太夫の語りの中に、「小松が嫡子、維盛」というセリフがあった。そうだったんですよね。維盛は、その聡明さを謳われ、「小松殿」と呼ばれて慕われた清盛の長男重盛の息子だったんですね。清盛とことごとく対立。早くに病没してしまった重盛。『平家物語』ででも、その徳篤い人柄は真逆の父清盛と対比された。ここ、臨場感あふれる描写で描かれていたっけ。

以前に重盛に助けてもらったことがあり、それを恩にきている弥左衛門、今ではすし屋を営んでいる。長男の権太はどうしようもない鼻つまみ者で父から勘当を受けている。娘のお里はそれと対照的な娘。維盛はすし屋の使用人に身を匿し、この一家の世話になっているという設定。あの長〜い『義経千本桜』の三段目の一部。

『義経千本桜』の世界でのこの段は「世話もの」に近い。『千本桜』は通しで演じられることはあまりなく、特に歌舞伎ではその傾向が強い。どうするかというと、段をぶっちぎるのである。最もよく演じられるのは静御前と忠信狐の「道行初音旅」とこの「すし屋」かも。次によくかかるのは「渡海屋・大物浦の段」。「渡海屋・大物浦の段」はこの2月に松也=知盛で、昨年6月に染五郎=知盛で観ている。段のみ演目の一つとして公演に組み入れることが多く、なかなか『千本桜』の全体像が見えて来ないという難点も。

「すし屋」は、ずっと前に勘九郎(後の十八世勘三郎)のいがみの権太で見ている。それが最初で、次に幸四郎のいがみの権太でも見ている。記憶の彼方ではあるけれど。「もどり」の部分が印象的だった。勘九郎も幸四郎もいずれも現代劇ができる役者さん。今日の獅童にも同じ素質を感じた。獅童の権太の造型は現代劇のもの。これがとても新鮮だった。それもセリフ、振りは古典歌舞伎をなぞりながら、それを超え出てしまう現代劇のテクスチュア。どちらかというと、現代劇的な要素の方が際立っていたかも。役造りの仕方がまるで現代劇のそれという点で、先日国立劇場で見た松緑の『出羽守』を連想させた。松緑も獅童もそういう素質を否が応でも表わさずにはおれないんだろう。その意味で、稀有であり貴重な役者さん。新風を歌舞伎に吹き込んでくれると期待したい。

獅童は病気を乗り越えての権太。それを重ねてしまうので、かなりしんみりとして見ていた。ご本人はそんな思惑などどこ吹く風?っと、いたって呑気。それに救われる。最近は海老蔵と組むことが多く高く評価していなかったのだけど、ぬかっていた。とんでもない誤解だった。海老蔵のチョー軽い、かつ頭の悪さが露呈するようなインチキ役造りとは正反対の真面目な役造り。感心した。見直した。これから益々出番が増えるであろう役者。獅童でなくてはできない役がたくさんあるはず。どんどんそれに挑戦していただきたいと、心から願う。