yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

羽生結弦選手 フリー@スケートカナダ2016 (グランプリシリーズカナダ大会)

テレビ朝日の放映にかろうじて間に合った。PC画面で見るより、やはりテレビの大きな画面で見たい。映像もはるかに綺麗でクリア。間に合ってよかった!

「羽生結弦選手 応援ブログ〜kosumo70」さんの記事から羽生選手フリー演技の写真をお借りした。ありがとうございます。

このショット!優雅さの中にも「負けん気の羽生結弦」はやっぱり健在。うれしくなってしまう。

曲は「Hope & Legacy」。これは久石譲の「View of Silence」と「旅立ちの時〜Asian Dream Song」をリミックスにこの題名をつけたという。振り付けは「SEIMEI」を振り付けたシェイ=リーン・ボーン。この方の振り付けの繊細さはまさに無敵。羽生選手だからこそ、その繊細を受け止め、より洗練されたものへと高めることができた。

幸運なことに彼女へのインタビューの録画が見れた。自然の中の風、光などがヴィジュアライズされるよう、振り付けたとか。音楽を聴いて納得。久石譲の「旅立ちの時〜Asian Dream Song」は1997年長野パラリンピック冬季大会テーマ・ソングだという。彼は宮崎駿のアニメ、『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』のテーマソングも書いている。日本を代表する作曲家。ネットで「Asian Dream Song」の歌詞を採集できた。そこでは「風」、「光」、「空」、「大地」、「星」といった自然の森羅万象の要素がとりあげられ、それらが最終的には君の瞳に花開く夢となってゆくと歌い上げられている。まるであの「花は咲く」を想起させる歌詞。

この「Asian Dream Song」には「もののけ」と同様のPantheism (汎神論的)の、あるいはAnimism(アニミズム)の響きを強く感じる。それも日本に太古から綿々と受け継がれてきた自然崇拝と深く関わったものとして。だからこの曲は、まさにあの「SEIMEI」の延長線上にある曲。羽生結弦選手にとっては馴染みのある世界。彼が自家薬籠中のものとする世界観、宇宙観に違いない。

昨日の緊張感に満ち満ちた雰囲気とはガラリと変わった、どこか慣れ親しんだ雰囲気を纏って羽生選手が登場したとき、勝利を確信した。勝利というのは得点のみを指すのではない。彼がどれほど十全に自身を発揮できるかということの「勝利」。この曲の世界こそが、彼が震災以来表現したかった、また表現してきたものだから。これほどしっくりくるものはなかったはず。

そして、気品と優雅さに溢れんばかりの演技が始まった。スケーティングもステップもジャンプもスピンも、それらすべてが羽生結弦という霊媒の身体を通して、静謐な自然界を、それに唱和して生きる万物をヴィジュアライズしてゆく。テクニックももちろん素晴らしい。でもそれ以上にそこに醸し出される空気は、テクニックを、その巧拙を無化するほどの清らかさ。優雅さ。チャン選手も他の選手もそれぞれ優雅ではあったけど、テクニックがテクニックとして見えてしまっていた。羽生選手が他の選手と決定的に異なっているのがこの点。それは以前からそう。こんな人は前にも後にもきっと存在しないと断言できる。

ここまでの高みに達したスケーティングは、ある種官能的ですらある。もちろんそれは観客サイドの感慨ですけどね。

官能的ということであれば、ショートの「Hope & Legacy」もそう。それはあのリズムがいかにもという以上に、プリンスが具現しているのが苦悩の中(マゾヒズム?)に垣間見えるエロスだから。この曲を舞う羽生選手の衣装が「悪魔祓い」をする司祭のようだと言明したけど、この言明もさほど的外れではないかも。プリンスのこの曲の歌詞は明らかに「悪魔祓い」を彷彿させる内容。そこにはキリスト教的世界と相入れない違和感がある。プリンスがクリスチャンだったかどうかは知らない。仮にそうであったとしても、彼自身の中にはプロテスタントの支配するキリスト教的価値観への抵抗があったはず。強いPaganism(異教)の匂いを感じる。

今回のショートとフリーの曲の共通点は「Paganism」ではないだろうかと思ってしまう。フィギュアスケートという我々日本人からはかなり「遠い」スポーツ。身体的にも、それ以上に思想的に。当然スケートでは西洋的価値観に則った世界を描出しなくてはならない。そこに身を置くとき、どうすれば自身のアイデンティティを担保したまま西洋的価値観と抵触しない、あるいはそれを超えるようなものを提示できるのか。それも彼らの価値観で見ても感嘆させるようなものを生み出せるのか。彼らを「組み伏せる」ことができるのか。

それには「思想」がエッセンシャル。羽生結弦選手のスケーティングがかくも人の心を打つのはそこに彼が止むに止まれず表現したい哲学があるから。哲学というのが大げさなら、世界観といってもいい。今までにそんなスケーターがいましたか?これからもそういうスケートをする人が現れるでしょうか?

今シーズン、彼は自身の思想をどこまで極められるかに挑戦するはず。それは他のスケーターとの戦いではなく、彼自身への挑戦になるだろう。