yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『恐怖時代』八月納涼歌舞伎第一部@歌舞伎座8月24日

昨日、今日と歌舞伎座に行って来た。昨日第二部と第三部を観て、今日は第一部を観た。伊丹空港に着いたら滝のような大雨でびっくり。大雨警報が出ていたよう。家に帰るまでには大分小降りになっていたけど、先日の広島の災害を思いだした。何かまがまがしいことの前兆であるかのような、最近の天候不順。気が滅入る。

第一部の『恐怖時代』、以下松竹の「歌舞伎美人」のサイトからの引用。

<配役>
お銀の方:扇 雀
磯貝伊織之介:七之助
茶道珍斎:勘九郎
細井玄沢:亀 蔵
お由良:芝のぶ
氏家左衛門:橘太郎
梅野:萬次郎
春藤靱負:彌十郎
春藤釆女正:橋之助


<みどころ>
陰謀をめぐり、様々な人間の欲望が重なり合う愛憎劇
 
江戸深川に広大な屋敷を持つ春藤家。太守、春藤釆女正は残忍な性格の上、日夜酒宴に耽(ふけ)っています。その愛妾お銀の方は、実は家老春藤靱負(ゆきえ)と深い仲で、お家乗っ取りを企んでいます。釆女正との間にできた子である照千代は、本当は靱負との子で、懐胎している正室を毒殺し、照千代に家督を継がせようとしているのでした。そのためお銀の方は、自分に心を寄せている医者の細井玄沢に毒薬を用意させます。さらには小心者の茶坊主の珍斎を脅し、正室に毒を盛ることを承諾させます。
 

一方、若く美しい小姓の磯貝伊織之介は、実は家中一番の剣の使い手。女中梅野とは夫婦になる約束をしています。そんな折、釆女正が催した酒宴に太守の乱行を見かねた家臣が諫言に来て、お銀の方の命を差し出せと申し出ますが…。

谷崎潤一郎が大正時代に発表した戯曲をもとにしたこの作品は、谷崎ならではの耽美的な作風で、お家横領をめぐり、愛欲と権勢欲が交錯する醜くも美しい舞台になっています。久しぶりとなる歌舞伎での上演にご期待ください。

この演目も十分にまがまがしい内容。『先代萩』を、あるいは海老蔵が挑戦した(『先代萩』を下敷きにした)『伊達の十役』も思わせた。予想通りというべきか、今月の「納涼歌舞伎」ではこの演目が最も良かった。

谷崎潤一郎原作で武智鉄二演出(斎藤雅文演出)だから当然といえば当然。1951年、京都南座でこれを演出する際、武智はそれまでの新劇風の演出をすべて否定し、彼独自の理論に基づく歌舞伎演出を試みた。武智は戦前・戦中から彼の歌舞伎、いわゆる「武智歌舞伎」を提唱、実践してきていた。だからこの『恐怖時代』のその文脈に則ったものである。その熱い舞台を観たかったと思う。当時鶴之助(故中村富十郎)がお銀の方、扇雀(現坂田藤十郎)が伊織之介だった。筋書を見ると、なんと!1976年に再び武智が演出し、新橋演舞場で再舞台化された。このとき、玉三郎がお銀の方、菊五郎が伊織之介だった。また(驚いたことに)、孝夫(現仁左衛門)が釆女正だった。

それ以来板に乗らなかったのを、今回の試みである。しかも武智の演出を踏まえた斎藤雅文演出だから、不足はない。ここ20年ばかりの硬直化した歌舞伎ではこの演目は演らなかった(演れなかった)だろう。あまりにもリスクが大きいから。

なぜなら、この作品が優れて近代的だからである。人物に「近代的解釈」をしないと、従来の歌舞伎のフラットな人物に堕ちてしまう。フラットなのはそれなりの世界観を表しているから意味があるのだが、谷崎のこの作品はそれからはみ出してしまう人物、近代的自我とでもいうべきものを持った人物である。それ相応の造型をしないと、人物の複雑な心理、精神構造が理解できない。また複雑な人物間の絡み、葛藤が観客に伝わらない。だからストーリーのおもしろさも立ち上がって来ない。武智はその点に細心の注意を払って演出したに違いない。

『先代萩』ともっとも違うのが色欲が芝居全体を回しているところ。もちろん権力争いが主軸なのだけれど、色欲がそれに絡むと回り方が均一でなく、暴走したり緩んだり、その速度がさまざまに変化してしまう。ただ主人公たちが近代的自我をもつ人物であるように造型されているので、彼らは愛欲にどこまでも堕ちいってしまうところまでは行かない。お銀の方しかり、靱負しかり、玄沢しかりである。そしていちばん近代的だと思えるのが伊織之介。彼は『四谷怪談』の伊右衛門のような色悪になりきれない男である。そういえば色欲もわりきれるゲームのようなところがある。割り切れないのはただひとり、暴君の釆女正のみ。

茶道珍斎役の勘九郎がとても良かった。見直した。『たぬき』でも感心したけど、一皮むけたような印象を持った。