yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

能『実盛』 金春流(1967年/東京観世会館) [能楽名演集 能「葵上」& 能「実盛」 [DVD] 

ビデオに付いていた情報が以下。

シテ・翁(実は実盛の霊):櫻間道雄
ワキ・他阿弥上人:森茂好
ツレ・従僧:宝生閑 鏑木岑男

「実盛」はあの芭蕉の句、「むざんやな 兜の下のきりぎりす」で有名な歴史上の人物。芭蕉が実盛終焉の地、小松を訪れて斎藤別当実盛を偲んで詠んだもの。芭蕉は男伊達のお手本の様な実盛を悼んだのだった。『平家物語』の中で最も心を打たれた場面は私には二つあって、その一つがこの実盛最期。もう一つは平知盛最期。いずれも情景がありありと迫ってきて、武将の美学とでもいうべきものが胸をうつ。

時は源平合戦の候。平維盛の軍兵として老齢を押して戦に出た実盛。老武者であることをみてとった相手が手加減するのをよしとせず、白髪を墨で黒く染め、赤い直垂を着て戦場に馳せ参じた。若武者、手塚太郎に討ち取られ、その首は木曽義仲の前に差し出された。訝しく思った義仲がその首を洗わせたところ、元の白髪が現れた。義仲はかって実盛に命を助けられたことがあり、命の恩人の死を悼んだという。

実盛の「滅びの美学」は能の「実盛」になり、また歌舞伎の『源平布引滝〜義賢最期・実盛物語』にも移植されている。歌舞伎で描かれる実盛は能で描かれる人物像とはかなり違った印象。ともあれ、実盛がいかに後世の人の胸を打ったかがよくわかる。

さて、櫻間道雄がシテを演じた「実盛」。よくぞNHKがこの作品を録画しておいてくれたものだと、感謝。名人、櫻間道雄の数少ない実演フィルム。櫻間道雄について「ことバンク」からの解説は以下。

能楽師。金春(こんぱる)流シテ方。桜間林太郎(桜間伴馬(ばんま)の末弟)の次男。はじめ父に師事し,1913年上京後は伯父の伴馬について修業。堅確な技術をもって早くから実力を評価されていたが,花開いたのは60年代以降で,伯父譲りの巧緻・艶麗な芸風に自己の研鑽と主張を積み重ね,高度な技術を有すると同時に,技術を超えた高い様式を獲得した。あらゆる曲趣に秀でていたが,とくに《定家》《江口》《西行桜》などが名演として知られ,老女物の秘曲《檜垣(ひがき)》を2回,壮者の体力と集中力を要する《道成寺》を70歳と84歳で舞うなど,老いを感じさせぬ意欲と探求心を示した。

さらにWikiの解説を付け加えるなら、昭和30年三島由紀夫作・武智鉄二演出の「綾の鼓」に主演したという。これを知ったとき、悔しかった。見たかった!

私が櫻間道雄を知ったのは、武智鉄二の著作からだった。武智は自身が結成した(若手歌舞伎役者を束ねた)「断弦会」のメンバー全員に、櫻間の稽古を受けさせていたという。その情報を武智の『武智歌舞伎』から得た。戦後すぐ、武智は困窮していた櫻間を様々な形でサポートしたという。武智と櫻間との「付き合い」は実に興味深いものに、私には映った。とにかく昔感覚のパトロンなんです。武智が莫大な遺産を継いでいたから可能だったんでしょうね。

櫻間道雄、このときはすでに老年にさしかかっていたけれど、その立居の美しさはさすがだった。スッキリと品がある。実盛の独白に入る直前の面を少し傾げたサマに、未だ成仏できず、さまよっている身の哀しみがにじみ出ていた。おそらくこれは名人のみが醸し出す憂いなのかもしれない。ちょっとした肩の感じ、身体のポスチャー、これらが交響曲のパートの様に絡み合い、彼の人となりを立ち上がらせていた。

やっぱり上手い!武智が惚れ込んだだけのこと、ありですね。

「櫻間道雄」というと、武智の批評から先入観がすでにできていた。覆すような何かは確認できずにいるけれど、それでもこの演奏が、櫻間の晩年の心意気、それは実盛のそれと共振するのだが、それを表していた様な気がする。この演目はいわゆる「修羅能」に当たるものだけど、武将の最期がなぜこれほどまでに感動を呼ぶのか。あまりこういう結論は持ってきたくはないのだけれど、日本人の心性の中に敗者への共感が厳然とあり、しかもそれが「滅びの美学」へと繋がってゆく傾向があるからだと、やっぱり結論付けてしまう。