yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

シネマ歌舞伎 『野田版鼠小僧』@神戸国際松竹10月30日

松竹のサイトからの案内は以下。

【みどころ】
作・演出:野田秀樹
平成15年8月歌舞伎座において大ヒットとなった舞台です。
現代演劇界を代表する才能の一人、野田秀樹氏の作・演出で、勘九郎(現・勘三郎)を始めとする豪華で個性的な俳優たちの競演です。


あらすじ】
正月、江戸の町では鼠小僧の芝居が大人気。見物客の中で、棺桶屋の三太(さんた)がずる賢く金稼ぎに励んでいます。金にしか興味のない三太は、実の兄が死んでも棺桶屋の出番と喜ぶ始末。その上遺産があると聞いて大はしゃぎ。ところが遺産は善人と評判の與吉(よきち)が相続することに。他人には渡すものかと一計を案じた三太は、兄の死体の替わりに棺桶の中へ忍び込みますが・・・江戸町奉行から幽霊まで、個性溢れる登場人物達を、豪華な顔触れが賑やかに楽しく演じます。
[上演月]2003年8月
[上演劇場]歌舞伎座


【配役】
稲葉幸蔵/棺桶屋三太:中村勘九郎(現・勘三郎)
若菜屋後家お高:中村福助
與吉:中村橋之助
大岡妻りよ:片岡孝太郎
目明し清吉:中村勘太郎(現・勘九郎)
辺見娘おしな:中村七之助
長屋の娘お新:坂東新悟
辺見勢左衛門:中村獅童
番頭藤太郎:坂東弥十郎(現・彌十郎)
辻番人與惣兵衛:坂東吉弥
辺見妻おらん:中村扇雀
   大岡忠相:坂東三津五郎

「ここまでやるか」というカゲキさだった。野田秀樹の実力の程がよく判った。入り組んだ人間関係もおどろくほどすっきりとまとめられていて、無理がなかった。歌舞伎の古典作品との違いがそこにある。予習しなくても、その場に居ればすんなりと人物の相関関係、筋が判るというのは、プロットが上手く立てられているからである。さすが頭の良い野田だ。

いろいろな古今東西の「古典」の断片がコラージュになっている(と思われる)。

軸になっているのは、もちろん「鼠小僧伝説」。多くの作家ーー長谷川伸、芥川龍之介、大佛次郎、吉行淳之介、直木三十五、菊池寛ーーが小説にしている(Wikiより)。マンガ、アニメにもなっていて、かくほど左様にとても魅力的なキャラクターなんだろう。この義賊伝説に「年の暮れの庶民の生活」(『鼠小僧』は大晦日の江戸が舞台)を描いたきわめて俗っぽい西鶴の浮世草子、『世間胸算用』(これは暮れの京の街が舞台)が組み込まれているのではないか。ありとあらゆる人間の欲ーー物欲、色欲ーーが織りなす交響曲の様相を呈している。交響曲といったのは、軸(テーマ)は一つでもそこからいろいろなストーリー(サブテーマ)が派生しているから。この組み立て方の緻密さに舌を巻いた。

そこには西鶴と同種の皮肉な目が光っている。「禍福はあざなえる縄のごとし」という格言をそのまま絵に描いたような表裏一体となった人の運。また、一人の人間の中には善と悪が同居するという事実。ここには徹底した現実主義者の目が感じられる。與吉や大岡越前など一見善人にみえた男が実は悪者で、悪いと毛嫌いされていた三太にも善のかけらがあったという結末。またそういう三太も悪の狡猾さの前にあっけなく潰されてしまうというこの世の在り方、現実。この芝居のもっている重さはそこにある。喜劇でいて明るくはない。こういう作品を書くというのにはとてつもないエネルギーが必要に違いない。また演じる役者もそれを現実化するのに猛烈なパワーを要請されるだろう。

野田の緻密な脚本、それに見合った水も漏らさぬ演出、こういう作業を一緒にやるのは楽しくはあるだろうけど、身体だけでなくメンタルにもずいぶんと消耗するに違いない。このまったく瑕疵のない徹頭徹尾精密な構成を成す芝居を観て、どこか不吉な感じがしてしまったのは私だけだろうか。勘九郎はこのとき油ののりきった充実したピリオドを迎えていたから、なんとかやりおおせたのだろうが、ずいぶんと疲れることだったにちがいない。勘九郎の演技の徹底ぶりに笑いころげながらも、「この半分で十分よ」と叫んでしまっている自分がいた。「もっと出し惜しみしてよ」といっている自分がいた。

こういう徹底ぶりは大衆演劇の優れた劇団の演技にも通じるものがある。でも大衆演劇のお芝居の「カゲキ」はどこか「約束事」として観ていられるし、その演技を「半分で十分」なんて感じることはない。その点で、勘九郎はあまりにも目一杯、余裕がないように感じた。でもその意味では今までに彼に感じたことのない親しみと尊敬の念が深まった。

いちばん良かったのは大岡越前の妾宅へ忍び込んだ三太が女中に化けて(にわか作りの女化粧をして)、てんやわんやの騒ぎを引き起こすところ。この化粧、ムラだらけで、ホントに可笑しかった。ここで勘九郎の評価が一気に上がった。まさに吉本的スラプスティックス。大衆演劇では常套のものだけど、歌舞伎でここまでやるとは。その意気に心打たれた。彼が歌舞伎の現状に対していわば「命をかけて」挑戦をしようとしていたことが痛い程伝わって来た。

ここにかり出されていた役者たち、すべてが嬉々として役を演じていた。息子の勘太郎、七之助、そして福助、橋之助、扇雀、孝太郎、三津五郎、獅童、それに弥十郎、すべての人が一つの目的に向って力をあわせているのがよく分かった。だから出てきた結果もすばらしいものだった。エポックメイキングな芝居だったというのが納得できた。