なんという過剰!ただ、圧倒される。それが黙示録的宇宙を描出している点で、映画、『ツリー・オブ・ライフ」』を想起させた。ただ、『ツリー』の方が「静謐」に収斂するのに対し、こちらはあくまでも過剰に終始するという違いはあったけれど。
過剰な断片のコラージュ
対立する「宇宙」とモチーフの過剰
おびただしい断片のコラージュ。しかもそれらの断片が、対立する宇宙のアマルガムを構成している。日本の伝統芸能と西洋のオペラ、伝統的曲とシンセサイザー曲、おとぎばなしの宇宙と現代政治状況、古事記的世界と平成世界等々。対立するモチーフでは、残虐と癒し、自己愛と自己犠牲、セクショナリズム(権力)と連携(共同)といったものが挙げられるだろう。
過剰の代表選手(?)たる歌舞伎の宇宙が、もっと大きなものに統合され、そして解放される瞬間に立ち会った気がした。野田が勘三郎と目指したのはこれだった?
セリフと音楽の過剰が表象する黙示録的世界観
セリフの過剰
舞台の縁からあふれんばかりに連呼されるセリフ。それらも入れ子構造で、しかもイメジャリーの連鎖をなしている。過剰が過剰を呼ぶ仕掛け。でも、その過剰が煩わしいというのではなく、スッキリとしている。それはなぜか、見ている間ずっと考えていた。思い当たったのは、これがレクイエムになっているからかも。故勘三郎へのレクイエム。
音楽の過剰
冒頭場面にかぶる音楽は、ギリシャの音楽家、シンセサイザー奏者のヴァンゲリス作曲の「Direct」というアルバム中のもの。*1 そのあとも「Direct」の曲が多用されている。ヴァンゲリスのアルバム集を見ると、ギリシア神話や聖書にちなんだものが多い。「Direct」には、どこか(聖書の)黙示論的世界観を感じる。
耳男のイニシエーション
オペラ『ジャンニ・スキッキ』中のアリア、「私のお父さん」も劇中頻繁に挿入されていた。好きな曲。先日見た映画『マリア・カラス』でもカラスが歌うシーンが数回挿入されていたっけ。ラストシーンの音楽も気になったが、スマホで調べる訳にもゆかなかったところ、この「stage note archive」さんサイトで判明。「太陽の帝国」のサウンドトラックから「Suo Gan」。『太陽の帝国』から「Suo Gan」を選んでいるというところには、イニシエーション的なテーマが示唆されているように思う。もちろん耳男のイニシエーションが。耳男と夜長姫との「恋」がこの二曲に表象されているのかも知れない。また、「Suo Gan」が最後に舞台を覆っていることから、耳男のイニシエーションが完成したことが示唆されているのかも知れない。
能『紅葉狩 鬼揃』で始まり花吹雪が散る桜の森で終結
般若面をつけた20人ばかりの人物が舞台に伏せている。そこに登場したオオアマ役の染五郎(当時)はさしずめ鬼退治をした平維茂を模している?最終章では満開の桜、その花吹雪が舞台一面に。ただならない美しくも怪しい気が満ちている。そこに例の黙示録的な、「Suo Gan」が流れる。今までの過剰な宇宙、断片のすべてが回収される。残るのはただ静謐。
シネマ歌舞伎のサイトから概要とキャスト
男が出会ったのは美しく残酷な姫だった―
歌舞伎として生まれ変わった伝説の舞台が、ふたたびスクリーンに!
現代演劇界を代表する奇才 野田秀樹が坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を下敷きに書き下ろした伝説の舞台『贋作・桜の森の満開の下』。
1989年に"劇団 夢の遊眠社"により初演されて以来、安吾作品のエッセンスを随所に散りばめた壮大な戯曲、恐ろしいほど妖しく圧倒的に美しい世界感が多くの演劇ファンの心を奪い、常に上演を望む声が聞かれる作品です。
そんな伝説の舞台が、ついに歌舞伎として新たに生まれ変わり、この度再びシネマ歌舞伎として全国の映画館に登場します。
野田秀樹と中村勘三郎が歌舞伎として上演することを約束していた作品でもある本作。
シネマ歌舞伎としてさらにその魅力を色濃くした『野田版 桜の森の満開の下』の世界をご堪能ください。
あらすじ
深い深い桜の森。時は天智天皇が治める時代。ヒダの王家の王の下に、三人のヒダの匠の名人が集められる。
その名は、耳男、マナコ、そしてオオアマ。ヒダの王は三人に、娘である夜長姫と早寝姫を守る仏像の彫刻を競い合うことを命じるが、
実は三人はそれぞれ素性を隠し、名人の身分を偽っているのだった。そんな三人に与えられた期限は3年、夜長姫の16歳の正月まで。
やがて3年の月日が経ち、三人が仏像を完成させたとき、それぞれの思惑が交錯し...。作品概要
- 上演月:2017(平成29)年8月
- 上演劇場:歌舞伎座
- シネマ歌舞伎公開日:2019年4月5日
- 上映時間:133分
配役
- 耳男:中村 勘九郎
- オオアマ:市川 染五郎(現:松本 幸四郎)
- 夜長姫:中村 七之助
- 早寝姫:中村 梅枝
- ハンニャ:坂東 巳之助
- アナマロ:坂東 新悟
- ビッコの女:中村 児太郎
- 左カタメ:中村 虎之介
- 右カタメ:市川 弘太郎
- エナコ:中村 芝のぶ
- マネマロ:中村 梅花
- 青名人:中村 吉之丞
- マナコ:市川 猿弥
- 赤名人:片岡 亀蔵
- エンマ:坂東 彌十郎
- ヒダの王:中村 扇雀
役者(鬼)揃い!
鬼(役者)揃い。歌舞伎役者でしかこの宇宙をここまでサブライムな形に持って行けなかっただろう。すべての役者が登場人物そのものだった。
主人公の勘九郎は大熱演。時々勘三郎が垣間見えた。勘三郎が憑依していた。「あの世から勘三郎が降りてきた?」と思う瞬間が何度もあった。「過剰」を身体のあらゆる部位を使って表していた。おびただしいセリフを恐ろしいほど完璧に駆使できていたのは、どれほどの稽古があったんだろう。カーテンコールで登場した彼を見たとき、泣いてしまった。
対する七之助はもうなんと言ったらいいのか、ただお見事。妖しく意地悪く、美しい姫にピタリと収まっていた。一つの型の完成を見たのだと思う。
染五郎は、こういう役を演じるのが嬉しくて仕方ないように見えた。本当は眉を潰した公家のアホヅラ化粧を施したかったのを、逆に黒く縁取りした目にしていたんですけどね。吹き出しそうなのを我慢している感じが、おかしかった。
巳之助はやはり素晴らしい役者だと再認識。こういうワキははまり役。こちらも面白がっている(悪役を楽しんでいる)感が強かった。
「コクーン歌舞伎」の常連、亀蔵、猿弥、彌十郎が場を盛り立てているのは、いつも通り。この人たちがいてくれて、この斬新な舞台が成立していることを、改めて思った。
*1:「stage note archive」さんのサイト「『贋作・桜の森の満開の下』を彩った音楽」を参照させていただいた。ありがとうございます。