yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

勘三郎の悲壮感に打たれたシネマ歌舞伎の「連獅子」@神戸国際松竹5月18日

以下、松竹シネマ歌舞伎サイトから拝借した配役とみどころ。

キャスト=中村勘三郎[18代目](狂言師後に親獅子の精)
中村勘太郎[2代目](狂言師後に子獅子の精)
中村七之助(狂言師後に子獅子の精)
片岡亀蔵(僧蓮念)坂東彌十郎(僧遍念)

河竹黙阿弥作詞による歌舞伎舞踊の人気演目のひとつ。2007年10月に新橋演舞場にて、親獅子を中村勘三郎、子獅子を実の息子である勘九郎、七之助が踊った舞台を、『人情噺文七元結』に続き、日本映画界の名匠・山田洋次監督がシネマ歌舞伎にしました。今作では山田監督の意向により、シネマ歌舞伎史上初となる、舞台上に設置したカメラで舞台稽古を撮影し、客席からでは決して観ることのできない迫力ある映像が誕生しました。

親獅子が子獅子を千尋の谷に突き落とし、駆け上がって来た子獅子だけを育てるという故実を、実際の親子が演じることでことさらに感動がかき立てられます。クライマックスの白の毛の親獅子、赤い毛の子獅子による、息の合った豪快、かつ、華麗な毛振りは必見。

これはつい2ヶ月前にも松也、右近の組み合わせで生舞台を大阪松竹座で見ている

緊張感がまるで違っていた。勘三郎と勘九郎、そして七之助の「連獅子」は鬼気迫るものがあった。親獅子、勘三郎の(まるで自らの死を予感していたかのような)切羽詰まった動き。それに必死でついてゆく息子たちの子獅子。このころの勘三郎はまだまだ元気だったけれど、映像で見る限り、タダならないものを感じてしまう。勘三郎の獅子が見せる芸上の師匠=父の顔。それ以上に、どこまでも自身の内へ内へと沈潜するベクトルも感じられた。「手本を見せる」という外へ向かってのベクトルも強い勢いがあったけど、この内向きのものには、それ以上の勢いがあった。あの悲壮感はそこからくるのだろう。見ている側も居住まいを正して見てしまうほどの高みにある舞踊。歌舞伎舞踊では普通、このように感じたことはない。能の場合とは違う。この勘三郎の親獅子は、能の舞に通じる精神度の高みが屹立、聳え立っていた。涙が出そうになった。

勘九郎、七之助、それぞれに父の放つエネルギーについてゆこうとしてはいた。でもその質量が父、勘三郎のそれとは次元が違った。当然といえば当然。いずれは父の高みにまで行けるよう精進することは間違いないと思う。

間狂言は亀蔵と彌十郎で完全に歌舞伎風。2月に見て感心した澤村國矢と坂東玉雪の、狂言をほぼ写したものとは大分趣きが異なる。私としては澤村國矢と坂東玉雪の方がよかった。このお二人がより歌舞伎舞台で活躍する場を与えられて欲しい。そう強く願っている。

シネマ歌舞伎のサイトから拝借した写真を以下に。