yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

吉本 隆明;江藤 淳 (著)『文学と非文学の倫理』中央公論社2011年初版刊

啓発され、同時に憂鬱にもさせられる対談集である。

文学と非文学の倫理

文学と非文学の倫理

この戦後日本を代表する、そしておそらくはこれからも超えられることのない、ラカン的意味で文学批評界における「審級する父」をシグニファイする二人の、1966年から1988年までの22年間にわたる対談をすべて収録したものである。最後の対談からすでに25年、四半世紀が経過している。今、ここでこういう書物が要請されていることを、真剣に捉えた中央公論社の快挙だと思う。それでいて「編集付記」にはそのあたりの判断は述べず、ただ事務的事実だけを手短かに書いているだけである。対談者二人への深い敬意が感じられる。

「文学と思想」、「文学と思想の原点」、「勝海舟をめぐって」、「現代文学の倫理」、「文学と非文学の倫理」と、5章に分かれている。どの頁を開いても、そこには吉本、江藤それぞれの深い洞察が窺える意見が載っていて、それらの重みに、そこでじっと読みとどまざるをえない。、二人、それぞれの意見、見解は馴染むことも、対立することもあるのだけれど、それでいて共通して伝わってくるのは、和合するにせよ、対立するにせよ、それぞれが相手を理解していることである。何をいわんとしているのかが互いに分っている。それが完全に噛み合っていて、対手の見解を取り違えるという齟齬がない。この二人のそれぞれの学識がなみはずれていることが理由だろうが、それ以上に感動したのは二人の「倫理」の共振性だった。もちろん全体のタイトルにもなっているから、編集部もそこを強調したかったのだろうし、そうせざるをえない、この二人の「倫理」への固着が行間から立ち上がってくる。

戦後文学界の作家や批評家が「俎上にあがって」いる。でもそういうのは正鵠を射た表現ではないかもしれない。江藤、吉本が自分たちの倫理性を通して、彼らと格闘しているといった方が相応しいのかもしれない。とくに江藤淳は私の中ではながく「傲慢」というイメージで捉えられていたので、非常に意外だった。おそらく相手が吉本でなければ、そういう江藤の部分は顕著だったのかもしれない。今読むと、江藤のの真剣さとある種の「絶望」のようなものがひしひしと伝わってくる。吉本がもうすこし楽観的なのとはきわだった対照をなしている。

三島由紀夫にたいする共感と理解、そして畏怖が印象に残る。また大江健三郎批判、そのころは新人だった村上龍、村上春樹への批評も的確である。柄谷行人の評価も、今みると正確である。江藤、吉本の先見性に驚嘆せざるをえない。「近代の超克」論争をあきらかに超えた深さ、そして先見性をもつ対談集であり、批評家が育っていない現在、この二人の「論争」を超えるものは出ないだろう。