21日の2時半から4時までの私のセッション、予定では三人のはずがエセックス大の人がキャンセルしたので、結局二人。持ち時間を20分以内に制限されていたのがかなり緩和され、DVDも少し長めに見ることができた。それで質疑応答にかなり時間が割かれた。今回の学会のもとのテーマが「ポップカルチャーと政治」だったので、来ている人のほとんどの専門が文学ではなく政治学、社会学、経済学といった社会科学の分野の人たち。切り口が私とは違う。同じ「body」を扱っても視点が違うと関心の対象が変わる。私のdiscipline(方法論)は精神分析学的文学批評なので、だいたいの場合は作品分析がまずあって、そこに作家そのものが生きていた社会、そして現在の社会を絡めて行くという方法論。興味のありどころがどこにあるかで、ポストコロニアル理論にせよ、ジェンダースタディにせよ、分析の結果がかなり変わることを思い知った。
大衆演劇についての発表だったのだけど、前日に他の人の発表を聴いていて、方向性を修正しなくてはならないと思い、あわててPowerPointを手直し。内容も社会学的な視点に移した。アメリカの大学院にいるときはポストコロニアル理論やジェンダースタディ的な、つまり「フーコー」寄りの方法論にかなり抵抗があって、ほとんど見向きもしなかったのに。ただいくら手直ししても、アプローチの仕方がもともと異なっているので、なにかつぎはぎだらけのものになってしまった。でもこういう学会、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』等の著書を訳した友人が聞いたら、喜んだだろうナなんて、考えながら発表を聞いていた。彼女が亡くなってもう3年近くになる。
でもこの「手直し」経験で、大衆演劇分析の方向性はしっかり決まった気がする。質問(不思議なことにジェンダースタディ視点からの質問はゼロだった)も助けになった。他者の目が必要だというのを、改めて確認した。ポストコロニアル理論を多少なりとも入れて作品分析をしたのはアメリカの大学院に入る前に書いた論文くらい。映画『誰がビンセント・チンを殺したか?』についてのものだった。ホミ・バーバのポストコロニアル理論を援用させてもらった。でも自分自身ではあまり納得できる批評になっていなかった。だいたいが長くアメリカ生活をしていなかったのだから、事件の背景を正確に捉えていたかどうかも疑問。20年経って、そこに戻らなくてはならないんだと、ちょっと変な気分。
学会の開催されたUniversity of Westminsterは、なんとOxford Circusのそば、Regent Streetにある。いわゆる都会型大学?学生はアメリカの学生たちと同じで、いかにも学生といった感じ。どこかの国の大学のように、「えっ、ホントに学生?」と疑問符がつく人はいなかった。授業風景をのぞいてみても、熱心にディスカッションをする姿はアメリカの大学のそれと変わらず。教師も「ソクラテス的」などちらかというとアナログのやり方で授業を進めている感じ。懐かしかった。
以下がUniversity of Westminsterの外観とそこからOxford Circusに向かって(南側)の光景。そして逆に北側の光景。またすぐ近くのPret a Mangerの店の外観。