yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

テレサ・デ・ローレティス(Teresa de Lauretis)著Practice of Love (1994) ロンドン大学出版局

このタイトル、どう訳していいのか分らないのでそのままにしている。私が拠っている精神分析批評家、特にフィルム理論、演劇理論の専門家の一人である。他にも何人かラカン派で論文の援用によく使わせてもらっている批評家が何人かいるが、この人が一番しっくりとくる。デ・ローレティスはどちらかというとフロイト派である。

彼女の講演を初めて聴いたのが1998年だったか1999年だったかのボストンでの学会だった。文学理論の学会だったと思う。「思う」というのは今となっては記憶の彼方だからなのだ。たしか映画論の講演だったが、とても元気のよい人だった。斬新な絵で知られる日本人アーティスト(この人の名も忘れてしまった)も参加していて、とても刺戟的な内容だったが、当時ペンシルバニア大の博士課程の2年目で、精神分析批評とはあまり関係のない日本文学関係や中国文化関係の文献を主として読み込むといった作業と、それについてのペーパーに追われていたので、それまで日本で傾倒していた精神分析批評とはかなり疎遠になってしまっていた。博士論文では精神分析批評理論を使うつもりだったので、この学会の内容にかなり焦りを感じてしまった。その中でも最も刺戟的だったのが彼女の講演だったと記憶している。

結局博士論文には彼女の理論は使わずじまいだったのだが、帰国して少女を扱った映画、アニメ、マンガの論文を発表するようになって、彼女の著書を何冊か読んで、感銘を受けた。

彼女の理論をこの3月末にイギリスのチェスター大で開催される比較文学の学会で発表する論文の援用に使ったのである。論文、といっても発表用なので8、9枚程度のもので、去年の夏に仕上がっていた。それを30枚弱の長さの論文にして、海外のジャーナルに投稿しようと考えているので、デ・ローレティスを初めとして他の理論家の論文を再度読み直している。やはり彼女のものがいちばんしっくりとくる。文学研究にも流行のようなものがあり、最近では彼女のようなフェミニスト系のものは、彼女の場合はクィア(ゲイ/レズビアン)理論というのだけれど、以前の隆盛に比べるといささか低調な感じがする。ということでジュディス・バトラー以後は目立った「大家」が出ていないのでは。

昨日一日デ・ローレティスのこの本とつきあってみて、凄い内容だと改めて感服した。それで訳したいナンて考えて、彼女と連絡をとりたいと考えている。今74歳でおそらく第一線は退いているのだろうが、Wikiによればサンフランシスコとイタリア(彼女はイタリアの出身である)を往来しているのだという。カリフォルニア大サンタクルツ校のエメリタスなので、講演活動は行っているのだと思う。調べた限り、彼女の著書が翻訳されていないのは惜しい。

こんなことを考えたのもジュディス・バトラーを訳していた友人が去年3月に亡くなったからである。死がとても身近に感じられるようになった。自分の持ち時間が永遠に続くと思っていたわけではないが、それでもここ数年どこか安閑としていた。持ち時間がどれだけ残っているのか分らないのだから、縛りなく時間を自由に使いたいと思う。英語で書きたいと思っている本があるのだけれど、今のままだと永遠にできそうにもない。今の職にいつまでいるのか、決断を迫られているような気がする。