yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

河竹登志夫さんの訃報

5月6日に亡くなられたという。長くお名前を聞かなかったので、このニュースはさほど意外ではないにしても、やはり一つの時代が終わったという感を強く持った。演劇(歌舞伎)研究者の郡司正勝さんは1988年に、服部幸雄さんは2007年に亡くなられている。この後につづく研究家というと古典演劇なら渡辺保さん、近代演劇なら大笹吉雄さん、西洋演劇なら渡邊守章さんだが、彼らの後に続く人は寡聞にして知らない。めぼしい人はいないのではないか。

いわずもなのだが、河竹登志夫さんは、お父様の河竹繁俊さんが黙阿弥の娘、糸女の養子に入ったので、黙阿弥の曾孫にあたる。Wikiからの情報は以下である。

本名は俊雄。演劇研究家・河竹繁俊の二男として東京に生れる。祖母(繁俊の養母)の糸女は幕末から明治にかけての歌舞伎狂言作者河竹黙阿弥の娘である。
成城高等学校東京大学理学部卒業、早稲田大学第一文学部演劇学科、同大学院を経てハーバード・エンチン研究所客員研究員として招かれた。1964年、早稲田大学教授を経て、現在名誉教授。1974年東京大学文学博士。「近代日本演劇とハムレット : ハムレット移入史の研究」。1990年、共立女子大学教授。ウィーン大学、北京日本学研究センターの客員教授日本比較文学会会長、放送文化基金理事長、日本演劇学会会長、日本演劇協会会長などを歴任し、公益法人都民劇場理事長を務めた。
歌舞伎を西洋演劇との比較で論じる比較演劇が専門で歌舞伎の海外公演に同行し、観客の反応を調べたりした。
1968年、『比較演劇学』で芸術選奨新人賞、また1981年、黙阿弥没後の河竹家の歴史を描いた『作者の家』で読売文学賞毎日出版文化賞を受賞。1987年に紫綬褒章を受章し、1994年には国際交流基金賞を受賞。
1995年に旭日中綬章を受章。2000年には恩賜賞と日本芸術院賞を受賞し、2001年に文化功労者に選出された。2010年5月には日本経済新聞にて『私の履歴書』を連載した。2003年に放送文化賞を贈られた。

ちょっと気になったのが「ハーバード・エンチン研究所」という記載。正しくは「ハーバード燕京研究所」とすべき。

そういや比較文学会、比較演劇学会の会長を勤められたんだっけ。歌舞伎と西洋演劇の比較に関する話題ということではNHKの番組によく引っぱりだされていた。小柄な方だったと記憶している。

日本の演劇は英語の翻訳が少なく、特に評論、批評に関してはそれが顕著で、彼の論文はアメリカでは重宝されていた。彼の論文を英語に直す研究者がハーバード大の関係者に多くいたことが幸いだった。

歌舞伎の研究書としては、服部幸雄さん、郡司正勝さん、そして渡辺保さん、さらには武智鉄二(こちらは『武智歌舞伎全集』としてcomprehensive なもの)を所蔵しているが、河竹登志夫著としては,『歌舞伎美論』の一冊のみである。これは上掲の他の研究者のものより、「研究書」色が強いので、アマゾンでもそう売れている訳ではなさそうである。あまり広まっていないもう一つの理由は、「比較演劇論」だからだろう。西洋発の「構造主義」(さらには「ロシアフォルマリズム」)といった理論に批評の礎を置いているところが、一般受けしないのかもしれない。でも彼のギリシア悲劇との、近現代ではブレヒトとの歌舞伎の比較論考はきわめて示唆に富んでいる。私がもっとも刺戟的だと思ったのは「異化作用」を歌舞伎に適用したところである。

ブレヒトすらも「過去形」で語られるようになった昨今、逆にもう一度彼の「どっぷりと西洋の演劇理論に淫した理論」を見直す機運が出てきても良いような気がする。