yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「知のトリックスター」を生きた山口昌男さんの訃報

10日に亡くなられたという。最近はメディアでもおみかけしないので、すっかり引退されたのかと思っていた。でもそれは彼らしくないし、どうされているのか心配していた。

初めて読んだ彼の著作、『歴史・祝祭・神話』は文化人類学がこんなにおもしろいものだということを気づかせてくれた、私の今までの読書歴の中でも、もっとも影響された本の一冊だった。

歴史・祝祭・神話 (中公文庫 M 60-2)

歴史・祝祭・神話 (中公文庫 M 60-2)

文化人類学がいわゆる学術の枠の中にきっちりと納まるのではなく、広く社会学、政治学、そして文学へとつながる広い領野をもつものだということを、認識させられた。特に演劇とは、「祝祭」を媒介として切っても切れない関係にあることも、初めて知った。しばらくは私にとっての「山口昌男」ブームが続き、著作を読みあさったし、当時の「ニューアカ」ブームにのってメディアにもよく登場されたので、その動向にも注目していた。

今までまったくタッチしたことのなかった、たとえば「ポトラッチ」、「カーニバル」なんて概念を通して、研究対象の小説(当時アメリカの小説家、フォークナーだったのだが)を分析したりした。また、海外の文化人類学者、モース、マリノフスキー、エヴァンス=プリチャード、ミードなどを読んだ。ひところそのために図書館通いもしていたっけ。中でもフレイザーの『金枝篇』はおもしろくて、それも論文に援用したりした。日本の民俗学の代表、柳田や折口作品もそのころ読んだ。こういう新しいフィールドの書物を読むきっかけをつくってくれたのが、まさに山口昌男の著作だった。

その経緯で、イリイチにもバフチンにも出会うことができた。とくにバフチンは彼のおかげでかなり読んだので、「カーニバルのバフチン」として、私の中では確立していた。後にアメリカの大学で、彼の「ポリフォニー理論」に出会うことになるのだが、それも、「カーニバル理論」を経由しているので、なじみやすかった。その大学の「日本文化論」の大学院生のクラスでイリイチやらブルデューらやを読まされたときも、そう抵抗なかったのも、すでに読んでいたからである。

精神分析の例えばユングに出会ったのも、この流れからだった。フロイトは大学時代に多少齧ってはいたけれど、ユングを読んで、逆に照射すると巷間での評価とは違った面がみえて面白かった。現在の方法論として採っているラカンの精神分析も、遡れば山口昌男が起点だったのだと分る。

彼の著作でもっとも彼の筆が生き生きと躍動しているのは、なんといっても演劇に関連した箇所で、彼自身が演技者になって(まさにトリックスターとして)跳梁している。彼は文化人類学者としては当然なのだが、フィールドワークに熱心だった。その中でもジャワ島の影絵芝居に魅せられていたようである。

でもやっぱり、私の中では演劇の「文学的」側面をはっきりと提示してくれたことの衝撃は今でも生々しい。それは私が最初に出会った彼の本、『歴史・祝祭・神話』の中にみちみちている。以下に項目を挙げてみる。

● ガルシア・ロルカにおける死と鎮魂
● 祝祭的世界—ジル・ド・レの武勲詩—
● 日本的バロックの原像—佐々木道誉と織田信長—
● 犠牲の論理—ヒットラー、ユダヤ人
● 「ハタモノ」選び
● 空位期における知性の運命
● スターリンの病理的宇宙
● トロツキーの記号学
● 神話的始原児トロツキー
● メイエルホリド殺し

とまあ、こんな具合で、フランス演劇の渡邊守章氏の解説で、だめ押しとなっている。渡邊はトロツキーとメイエルホリドの栄光と死を<はたもの>という概念を通して結びつける山口の挑戦を「この神話学者の如何にも神話破壊的言説によって、あの血腥い陰惨な歴史の劇は、ニーチェの<系譜学>が発こうとした<仮面道化芝居>へと接近しつつあるかに見える」と評している。まさに的確な分析。

浅田彰、中沢新一など彼に影響を受けた人のみならず、多くの人がこれからは喪失感に悩まされることになるだろう。