yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

栗林隆著「ワヤン・クリ オン・ザ・ボーダー」インドネシア、ワヤン・クリの世界 in 『翼の王国』2015年2月号

『翼の王国』ANAの機内誌。今回の東京行きの帰りの便でこの記事を読んだ。今私が興味を持っているテーマと奇しくもシンクロする内容だった。「ご自由にお持ち帰り下さい」とあったので、持ち帰った。

ずっと以前に、山口昌男著『文化の詩学』(岩波現代選書)でバリ島のガムラン音楽、影絵芝居についての論考を読んだことがある。山口昌男さんの著書はずいぶんと読んだのだけど、影絵についてはもうひとつピンとこなくて、それ以上発展しなかった。芝居はやはりその場に行って、演じている人たちと時間を共有しない限り、面白いとは思わないものだということが分かる。第一その頃は、演劇そのものにも深い思い入れがなかったんだと、自分のキャパの小ささを再認識させられた。

この栗林さんの記事のもっとも印象深いところは、彼がワヤン・クリに二つの世界観をみているところ。「ワヤン・クリの世界には、スクリーンを隔てて二つの世界が存在する。光と影、裏と表、あちら側とこちら側、神と人間、の二つの空間である」と彼は書く。ワヤン・クリはもともと王族の娯楽のために十世紀に始まったものらしく、裏と呼ばれる影絵をみるものだったらしい。ところが今多くの人々が観ているのは表とよばれる(ガムランとかダランとかいう)音楽が演奏される場所なのである。でもダランやガムランの場所は本来ならば「裏」のはず。王族の目にする空間ではなく、裏方の世界であったはずだと彼は言う。「世界」が反転したのは1960年代になってからで、「文化の継承と、道徳的な説法、そして宗教的な啓蒙の世界に利用されたワヤン・クリは、王族のためのものから、本来は裏場だったダランたちの世界を、影から覗き見る大衆のためのものへと変化する」と、彼は続ける。これを機内で読んで、しばし瞠目。まさに現在の大衆演劇ではないかと。

栗林さんはワヤン・クリの影絵の製作者を訪ね、また演奏者にもインタビューしている。さらに、「生活の中にあるワヤン・クリ」という章では今でもそれが生活の一部になっている村を訪ね、ヤン・クリが実際に演じられているところに立ち会っている。もっとも感動的なのは、その次の章、「夢か?現実か?」。演じられているのは天界の王の話。日本でいえば『古事記』に当たるmythology。これはおそらく古今東西を問わず万国共通の普遍的なものだろう。

最初表の側、つまり音楽演奏者、影絵の遣い手のいる側から、彼は途中で裏、つまり影絵の空間へと移動する。そこで彼は奇妙な体験をする。以下当該箇所を引用する。

そこにはだれも座っていない椅子がならび、蛍光灯の光だけが輝いていた。観衆のいる表側とはまったく異なる空間。その風景は逆に、その椅子に誰かが座って影絵を観ているかのような不思議な空気が立ちこめている。

そして遂に異次元体験を彼はしてしまう。そして一つの結論に達する。

舞台が始まってから、いや始まる前からか、ここの空間がこの世の場所ではないような、非現実的な空気に包まれていることに私は気づいていた。ワヤン・クリの世界は、まさしく現実と非現実、あちら側とこちら側、神と人間の二つの世界を表現し、そしてそれを共有する不思議な空間であったのだ。

大衆演劇の芝居を観ていて、私もしばしばこういう体験をしてきた。すぐれた演劇はこのあちら側とこちら側の二つの世界を、包括して示してみせる。「古典」に軸足を置いた芝居を演じながらも常に新しい所以はそこにある。いくら換骨奪胎されても、古典の精神は受肉化されて、常にそこにある。あちら側とこちら側と間を揺れ動く空間と時間を、観客はそこで体験するのだ。