yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

市川猿之助、宮沢りえ主演『元禄港歌-千年の恋の森-』@シアターBRAVA! 2月6日

プロダクションは以下。

【作】
秋元松代

【演出】
蜷川幸雄


【出演】
市川猿之助
宮沢りえ 高橋一生 鈴木 杏
市川猿弥 新橋耐子
段田安則 ほか

結論から言うと、がっかりした。猿之助がここに参加する意味が分からない。というのも、芝居自体は完全にTAKARAZUKAや劇団四季と同質だから。確かに、彼一人傑出してはいた。でもそれが何なの?って思ってしまった。彼でなければいけない必然はナイ。むしろ異質さが際立ってしまう。

猿之助はたしかに、『黒塚』等の舞踊で女の怨念のようなものを描いて成功しているけれど、瞽女役はいささかそれとは質が違っている。さらにいうなら、こういう演劇を観る観客が期待するものと、彼が目指すところのものは違っている(はず)。観客の多くはは「歌舞伎界のスター」である猿之助を観に来ている。「TAKARAZUKA」や「劇団四季」の観客と今日の観客が同質という所以はそこにある。ここに来ていた彼(女)たちのいかほどが、猿之助の演技の質をみていたのだろうか。「歌舞伎のエリート」と「瞽女」の間のギャップをいやというほど感じたのは私だけ?

まあ、エンターテインメントの一環として捉えるなら、それもいいだろう。エンターテインメントとしては、十分にこの芝居は成功していた。でも、私は不満。これは彼が演じる必然がない。彼の演技の質が他の演者とは異なっていた。異なっていはいても、成功した例はある。『ヴェニスの商人』がそうだった。でもこの『元禄港歌』の他の俳優のまとっている軽さと、彼のまとっているもの、目指す方向があまりにも違いすぎるように感じた。

美空ひばりの歌が生きていなかった。というより「瞽女」という設定自体が生きていなかった。秋元松代の原作の所為なのか?原作を読んでいないのでなんともいえないけど。こんな描き方でいいの?となんども突っ込みを入れたくなった。美空ひばりが表象する、そして「瞽女」が表象するものに共通点があるからこそ、ひばりの歌が使われたのだろう。でもこの作品には残念ながらひばりの歌はまったくマッチしていなかった。芝居の空々しさが募るばかりだった。ひばりに失礼だと思った。

瞽女を描いた優れた映画作品に『はなれ瞽女おりん』(篠田正浩)がある。瞽女が強いられている環境、生活の過酷さ、彼女達への一般の人間の差別の熾烈さ、それを描いて秀逸かつ圧巻。これを踏まえてこの『元禄港歌』を観ると、まるでこちらは「天国」といわないまでも、別世界。ここから、「ありえない!」感が強くなる。いくらそこに子別れの「葛の葉」モチーフが絡もうとも、瞽女の悲惨さは描き切れてはいない。「被差別者」の苦悩。「葛の葉」の場合は狐という形で表される。瞽女が負っている被差別者との共通項がここにある。単に「子別れ」の悲しみのみを、糸栄は歌ったのではないのだ。彼女が瞽女として負った哀しみ、それは「存在の哀しみ」とでも行ったら良いのかもしれないものだけど、それを歌ったのだ。

さすが猿之助、第一幕のこの「葛の葉子別れ」の歌と演奏は素晴らしかった。切々と胸に迫った。だから安逸な結末の付け方が納得できない。第一幕で終わった方が良かったのでは。第二幕の予定調和的な結末には、うんざり。

商業演劇としては、たしかに腑に落ちる。役柄、プロットにおけるシンメトリー構造がその一助となっていることは間違いない。非常に分り易い構成。

糸栄の率いる瞽女集団と平兵衛が率いる豪商筑前屋との対比。体制側の集団と被差別者のグループ。体制側集団の若い男、信助と被差別者集団の若い女、初音との恋愛はそのまま、信助の弟、万次郎と初音の妹分、歌春との恋愛と連動している。また信助と初音の関係は、信助の父、平兵衛と糸栄との関係に連動している。また体制側の女、お浜と被差別者の女、糸栄との対比。ありとあらゆる対比が、きれいにシンメトリーをなしている。観客にとってはきわめて「親切」で理解しやすい構造。

だから大団円で、被差別者側の女、歌春が万次郎以外の、いわば堅気の男を選んだことで、この環は破られてしまう。歌春には「死」という制裁が待っていることになる。物語の構造は、環を閉じるという形で終わらせなくてはならない。歌春ははじき出されるが、信助と初音が結ばれ、母の糸栄とともに森深くに「帰って(還って)」ゆくことで、円環はきれいに閉じる。信助自体が徴付き(有徴者)だったということで、納得させられもしよう。

でも、こんな終わり方でいいのか。秋元松代らしくないのでは。商業演劇的には受けるプロットだし、現に観客は喜んでいた。「感動」さえしていたかもしれない。しかし、意図的に「納得させられる」仕組まれたものは演劇といえるのだろうか。エンターテインメントの域を出ない。まあ、それはそれで、意味があるのかもしれないけど。

とくに気になったのが、瞽女集団の描き方。上にも書いたけど、あんなに明るく描いていいの?まるで、「お国かぶき」のころのお国の集団のよう。女性集団であるとことは共通しているけど、なんといっても瞽女ですからね。差別される側でも、もっとも低い位置にいるはず。あんなに「あっけらかん」とされては、「これはないんじゃないの?」となる。瞽女が大きな意味を持っていることが完全に忘れ去られていた。瞽女はまた、葛の葉伝説とも共振するはずで、単に「子別れ」の哀しみを謳っているわけではない。社会における根深い差別を抜きにはこの物語は読めないと思う。

あらすじ、演者のコメント等はCINRA.NETという演劇専門サイトに詳しい。URLをアップしておく。
http://www.cinra.net/news/20151111-genrokuminatouta

ただ、ここにあった以下の謳い文句にかなり呆れた。

活気溢れる元禄の時代。大店筑前屋を舞台に描かれる、結ばれない男女、哀しい秘密を背負った親子。まさに、秋元戯曲の神髄ともいえる、陰影ある人物造形に加え、幾重にも重なった宿命が交錯し、物語は疾走していく―。町から町へと流れ三味線弾きを生業とする瞽女の一行。迫害される念仏信者たち。社会の底辺を必死で生き抜く人間たちの命の煌めきが、この物語に低通する神話性を感じさせるだろう。

神話性?「Give me a break!」と叫んでしまった。こんな低俗なコメントを恥ずかしげもなく出す演劇専門の人間って、いったいどういう人なの?「疾走」が聞いてあきれる。勝手に疾走してください。蜷川演出ということだけど、彼もヤキが回ってきたのかも。こんな安易なレベルの芝居でいいんですか。緊張感がまるでなかった。

このレベルの作品なら、大衆演劇の方がはるかに説得力のある芝居を低料金で提供していますよ。猿之助は大衆演劇に思い入れのある方だったのでは?日本の土着性を強く打ち出す芝居、差別される側の視点に立って創られた芝居、そういうものを観たければ、大衆演劇とよばれる旅芝居に勝るものはないことを、知っている人だと思う。だから、この蜷川演出の『元禄港歌』の白々しさは重々承知していたのでは?(猿之助演じる)糸栄と信助が親子名乗りをする場面があるけれど、そこでの「山あげ」は大衆演劇そのままだった。He learned!

猿之助以外で唸った役者は、やっぱり猿弥。そして新橋耐子。この二人と猿之助とが三角形を形成することで、他の「瑕疵」も補える?

最後はちらほらではあったけどスタンディングオベーション。そうか、こういう商業演劇的趣向が好まれるのかと、ヘンに納得した。