昨日『日本現代演劇史』といっしょに借り出したのだが、めっぽう面白くてついにアマゾンでも注文してしまった。
- 作者: 加藤秀俊
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2009/05
- メディア: 単行本
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御歳79歳だそうで、この本を書き始めたのが75歳ですべての役職を退いて「自由人」となってからだそうである。たしかにこの本にあるような芸能の源をあるいは所縁の地を求めての旅は物理的に身体が自由になってからでないと難しいだろう。それにしてもそのつきることのない好奇心とそれを支える体力、知力のものすごさにただただ脱帽である。なんといっても、これが著者のある種の「集大成」として完成されたことに「感謝!」のひとことである。一見「素人」のアプローチをとっているのだけれど、そこには長年にわたる研究の実績が裏打ちされているのは明白である。その研究も日本のディシプリンにのみ拠るのではなく、アメリカ仕込みの方法とそして理論(ご本人は打ち消しておられるけれども)のサポートがあったのも分かる。なんといっても社会学、文化人類学のメッカ、シカゴ大で薫陶をうけられたんですからね。
著者のいう「メディア」とはもちろんいわゆるメディアのことであると同時に原義の「霊媒」(複数形)の意味もある。神と人間との間を仲介する霊媒である。彼はそれを
「カミ・ホトケ」と「ヒト」とのあいだのコミュニケーション手段として聖職者たちが独占してきた秘儀がいつのまにか「ヒト」コミュニケーションという世俗の行為に進化してきたことに民衆の知恵とエネルギーを感じた。
という。
ここからが彼の持論の展開で、ユニークかつすぐれた洞察の部分である。
すべてはわたしの想像、というよりも妄想にすぎないが、その知恵は現代に連続している。たとえばかって比叡山の魔性退散のために地鎮の琵琶を演奏した盲僧は地神盲僧となって行脚する聖職者になり、それはやがて三味線を手にした「新内流し」に変貌し、さらにギターの弾き語りに進化した。その琵琶演奏の一部は「平曲」になったが、あの當道座がつくった階層性に批判をこめて、やがて「不知火検校」や「座頭市」のようなピカレスク小説の主人公がうまれた。澄憲にはじまる説教節はやがて浪花節の発生をうながし、それが綿々たる心情をうたう演歌になっていまわれわれの同世代にある。
妄想なんかではなく、過去と現在が連続しているとたしかな手応えを感じる論である。大衆芸能は決して途中で途絶えたりすることはなく形を変えて現在も続いていると、私も考えている。大衆演劇をこの2年間みてきて、その思いは確信になっている。演歌、そしてJ-POPをつかった舞踊、ショーにしても過去の芸能から連続したものであるのは間違いない。そして芝居も連綿とうけつがれてきた民衆芸能の一つの確固たる形態を伝えるものであるのだ。
著者が1200枚も書かざるを得なかったその原動力のもとになったのがまさにこの強い思いだったわけで、私自身の今後の道筋をつけてもらったような気もひとしきりする。