yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

日本の教育機関は三島由紀夫が唱える「古典主義教育の復活」を重く受け止めるべき

三島由紀夫が自刃して50年の11月25日が近づいてきた。関連本が平積みになっている書店もある。最近ネットニュース等でも三島関連記事が増えている。ついさきごろも、産経編集委員の宮本雅史氏の「三島由紀夫は『予言者』だった 衝撃的自刃から50年、『医学』『性』『教育』…作品で語る『日本』の誇り」(10/27発信)という記事に目が止まった。そこで引用されている?『不道徳講座』(角川)を持っているはずなのに、探しても見当たらないので、宮本氏の文から引用させていただく。

教育についても、『生徒を心服させるだけの腕力をースパルタ教育のおすすめ』(64年7月)に、「『学園』といふ花園みたいな名称も偽善的だが、学校といふところを明るく楽しく、痴呆の天国みたいなイメージに作り変へたのは、大きな失敗であつた。学校といふものには暗いイメージが多少必要なのである。…現代の教育で絶対に間違ってゐることが一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。古典の暗誦は、決して捨ててはならない教育の原点であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた…これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし」と。

三島のこの文章そのものには記憶がないのだけれど、こういう考え方、思想的背景は、彼の書いたものからは直ちに読み取れるはずである。十代から西欧文学(独・仏・英・米)を読み漁っていた三島由紀夫は、文学で言えば西洋モダニストの影響下にあった「モダニスト」といえるだろうけれど、日本文学に関しては古典主義者である。日本古典への造詣はそんじょそこらの作家、研究者などよりもはるかに深かった。彼の文章を読めば、ただちに理解できるだろう。あの美に淫した文章は、西洋文学の流れを組むスタイルと、幼い頃から馴染んだ漢籍を含む国文学の融合体である。その意味では谷崎潤一郎、泉鏡花の伝統に連なっているといえる。日本人的心性、そして三島の言葉を借りるなら日本人の「文化意志」、言い換えるとアイデンティティということになろうか。それは古典教育なしで形成するのは難しいとの訴え、今この時だからこそ、心に響く。

手元に図書館から借り出した『源泉の美学 三島由紀夫対談集』(河出書房新社昭和45年10月)がある(なんと自刃の一ヶ月前の刊行!)が、そのいかにもラフな体裁の対談の中に、三島の本音が見て取れる。

前半部は小林秀雄、大江健三郎、舟橋聖一、安部公房、石原慎太郎、野坂昭如、福田恒存、大島渚、芥川比呂志といったどちらかというとモダニスト系譜に連なる人たちとの対談で、やはりそこでは「政治」が通奏低音になっている。しかし後半部には「日本の芸術」という章が別立てになっていて、そこでは歌舞伎(坂東三津五郎)、新派(喜多村緑郎)、能楽(喜多六平太)、長唄(杵屋栄蔵)、浄瑠璃(豊竹山城少掾)、(日本)舞踊(竹原はん)ら、実際のパフォーマーたちとの対談になっている。こちらの方が前半部よりもはるかに面白く、興味深かった。それは三島自身の心情が正直に吐露できていたからかもしれない。もちろん古典であろうと政治色抜きというわけにはゆかないのではあるけれど。三島が本来の三島であるのは演劇、それも古典演劇、演芸と関わるときなんだと納得できてしまう。

喜多六平太さんという伝説の能楽師がここまで突っ込んだ話をされるとは!三島が能の理解者としては突出した感性の持ち主だったとわかる。だから六平太さんも気を許して話し込まれたのだろう。また、興奮して読んだのが、山城少掾との対談。こちらも伝説の演者である。三島の辛口評、「いまの歌舞伎では、どんなにいい顔をそろえてやっても、山城さんがお一人でなさるオール・スター・キャストの『道明寺』ほどの味は出ない」に笑ってしまった。現在にもいえるかもしれない。とはいえやはり山城少掾は不世出の太夫だったんでしょうね。録音でしか聴けないのが残念。それは六平太さんも同じで、古い録画映像でしか見られない。

ちなみに『小説家の休暇』(新潮文庫)に収められた「日本文学小史」には、三島が選んだ古典十二点が挙がっている。

 (1)神人分離の文化意志としての「古事記」

(2)国民的民族詩の文化意志としての「万葉集」

(3)舶来の教養形成の文化意志をあらわす「和漢朗詠集」

(4)文化意志そのものの最高度の純粋形態たる「源氏物語」

(5)古典主義原理形成の文化意志としての「古今和歌集」

(6)文化意志そのものの最も爛熟した病める表現「新古今和歌集

(7)歴史創造の文化意志としての「神皇正統記」

(8)死と追憶による優雅の文化意志「謡曲」

(9)禅宗の文化意志の代表としての「五山文学」

(10)近世民衆文学の文化意志である元禄文学(近松・西鶴・芭蕉)

(11)失われた行動原理の復活の文化意志としての「葉隠」

(12)集大成と観念的体系のマニヤックな文化医師としての曲亭馬琴

続いて、「古事記」、「万葉集」、「懐風藻」、「古今和歌集」、それに「源氏」が章になって論じられている。なぜか続きはない。「新古今」は断片的に他のところで論じられているけれど、まとまったものを読みたかった。博論を書いているときに引用する必要に迫られ、序文と(5)の古今和歌集の章を訳したことがあるのだけれど、非常に難儀をしたのを思い出した。

敬宮愛子さまが日本文学科に進まれたということ、古典を研究対象に選ばれたということが、三島が古典教育の復活・充実を訴えていたこととが重なってして嬉しい。