大衆芸能史について書きたいと考え始めてから久しい。このあたりで文章にまとめておきたいと考えている。手持ちの関連書籍もいくつかあるが、情けないことにきちんと整理をしていない上、以前の関心の対象とずれてしまったこともあって、数がそろっていない。で、近所の公共図書館から本を10冊ばかり借り出してきた。こういうことは休みの間にすべきことで、学期が始まってやることではない。ぱらぱらと読むというのではなく、プロジェクトと認識した上で一点集中的にしないと、なかなか時間を意識的につくれない。
それでも、自分の本の中からプロジェクトに必要なものをとりだそうと、思い腰をあげた。そのとき目にとびこんできた本の一つがこれである。いつ買ったのかも思いだせない。巻末をみると1997年の出版なので、買ったのは1998年だと思う。線をいっぱい引いてコメントも入れて、おまけに付箋まであちこちにつけているが、今読み返すとなぜそこにコメントをのこしたり、線を引いたのかも分からない。
目をとおしているうちに気づいた。これはペンシルバニア大学でラフラワー先生の「日本文化史」のクラスをとっていたときに買ったのだと。だから日本で買ったのではなく、おそらくニューヨークの紀伊国屋まで出かけて手に入れたのだと思う。著者の山本哲士さんはブルデュー、そしてフーコーの理論を軸にして構造主義とマルクスを超える方法を模索しているから。ラフラワー先生にブルデューの論文、あるいはブルデュー理論に拠った論文(日本の文化事象についての)をかなり読まされたので、その一助とするためにわざわざニューヨークまで日本語の本を探しに行ったのだと思う。そのときはブルデューがもう一つピンとこなかった。おそらく歴史的、そして社会学的視点が私のなかになかったからだろう。フーコーも文学理論で援用されるときとはまったく違った様相をしているように感じられた。
で、今度この本にざっと目を通して、日本芸能史をやる場合、ブルデューが役に立つことがわかった。フーコーについては「ニューヒストリシズム」の零度になっている思想なので、立ち返って行かなければならないと、分かっていた。歴史をみるときに通時的軸に共時的なものを組み込むにはどうしてもフーコーの視座を取り入れる必要があるから。
山本哲士さん、ブログもやっておられて、エネルギッシュな方である。しかもアカデミズムの狭い世界を超えてさまざまな活動をされているのはまさに、ブルデューのいうところの「プラチック」を地で生きておられるようである。