歴史書を映画化したもの。小説を映画化するのとは違った苦労があったと思われる。公式サイトをリンクしておく。以下がそこにアップされていたストーリー。
金欠の仙台藩は百姓や町人へ容赦なく重税を課し、破産と夜逃げが相次いでいた。さびれ果てた小さな宿場町・吉岡宿で、町の将来を心配する十三郎(阿部サダヲ)は、知恵者の篤平治(瑛太)から宿場復興の秘策を打ち明けられる。それは、藩に大金を貸し付け利息を巻き上げるという、百姓が搾取される側から搾取する側に回る逆転の発想であった。計画が明るみに出れば打ち首確実。千両=三億円の大金を水面下で集める前代未聞の頭脳戦が始まった。「この行いを末代まで決して人様に自慢してはならない」という“つつしみの掟”を自らに課しながら、十三郎とその弟の甚内(妻夫木聡)、そして宿場町の仲間たちは、己を捨てて、ただ町のため、人のため、私財を投げ打ち悲願に挑む!
大文字の「歴史」には現れない歴史を探る。歴史を机上のもの、過去の出来事の羅列とせず、その時間の中に生息していた人間の営みに焦点を合わせ、そこから歴史の「実相」を暴き出すというもの。学校で習う「歴史」には、生の人間もその生態も見えてこない。だからこのような作品ができると、観客は自分と似たような人間が江戸時代も生きていたんだなと、気づく。そこにこそ、絵に描いた餅ではない「生きた歴史」を知る面白味がある。
ひところ文学批評の分野で一世風靡した「ニューヒストリシズム」を思わせるお膳立て。日本の学界で同じ方向性を持った学者、研究者だと 網野善彦氏、阿部謹也氏など。この作品の原作の歴史書を書いた磯田道史氏もその系列なのだろうか。NHKの「知るを楽しむ」の司会をされていたのを見た記憶がある。鋭利な分析に感心した。経歴の中に「永青文庫評議員」とあったのも興味深い。何年か前に八千代座に玉三郎公演を見に行った折に、熊本県立美術館の「永青文庫展示室」を訪れたのだけど、その時展示されていたのが参勤交代の絵巻物。この映画の中で農民が苦しめられるのが物資の運搬とその費用だったことを思い合わせてしまった。
テーマは「金融」を武器にした百姓と官僚体制にがっちりと固められた藩との逆転劇。もっと言えば経済活動と政治体制との対決。「藩に金を貸す」という発想で、覆るはずのなかった強固な藩の政治に風穴を開けたところに「資本主義」の萌芽すら垣間見える。
逆転を成し遂げるのに必要不可欠なのが連帯。ここは社会主義的発想。映画では日本の村組織が丁寧に描かれていて、その末端にまで体制が徹底されていたことがわかる。下から「肝いり」、「大肝いり」、「代官」、「郡奉行」、「出入司」そして藩の中枢部と、ヒエラルキー構造になっていた。もっともよく描かれていると感じたのは、その隅々にまで緊密にはり巡らされたネットワークが、末端に行けば行くほど冷たいものではなくより温かみが増していたこと。東日本大震災の折に強く感じた東北の人たちの連帯感と優しさ、温かさ。そして何よりも純粋さが、江戸時代からのものだったとわかり、私はこれに一番感動した。原作、映画製作の根底にはその東北の「ひとの美しさ」(無私のこころ)を描くというのがあったんでしょう。
ドラマとしてこれを立ち上げるため、いろいろな工夫がされていた。まず、金集めの苦労。一人一人説得して回るのだけど、出し渋ったり、裏切ったりといろんなハプニングがある。そこに当事者たちの思惑、背景とかが浮かび上がる仕掛け。次はがっちりと固められた藩の官僚機構に阻まれる計画。頓挫に次ぐ頓挫。そこにも当事者の思惑が絡む。
そこに主人公個人史がサブプロットとして組み込まれている。幼くして養子に出されたことへの恨みつらみ、本家を継いだ弟への対抗心。それらは「父」との葛藤が基になっていた。昔からの「カインとアベル」という精神分析学的テーマ。
歴史はそのままでは無味乾燥。そこに様々なドラマを立ち上げる仕組みを組み入れ、フィクションとして魅力的なものにしようとした脚本家の苦労がわかる。
俳優もそれぞれに応えていた。主人公の穀田屋 十三郎を演じた阿部サダヲ、その「相棒」の菅原屋篤平治役の瑛太、そして肝いりの幾右衛門役の寺脇康文、せこい商人、寿内役の西村雅彦などの脇も良かった。どの人も一癖も二癖もある人たち。だからリアル。あまりクセのない二人、妻夫木聡と竹内結子には、三島由紀夫原作の映画、『春の雪』が被ってくる。あの世界とこの世界のギャップに二人の年齢を重ねてしまった。
羽生結弦さんの起用については、全体のバランスを崩すかと心配だったけど、逆に藩主の浮世離れぶりを際立せるのに成功していた。官僚機構頂点に位置し、それにがっちりと守られている藩主の孤独のようなものも出せていたように思う。