yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『加藤秀俊著作集』中央公論社

加藤秀俊さんの著書は『メディアの発生』以来2冊読んだのだが、ぜひこの全集を全巻揃えたいと思ってきた。ばら売りはあったのだが、それだと巻によっては重複してしまうので、なんとか全巻一緒に入手したかった。いちばん読みたかったのが第4巻、「大衆文化論」で、さっそくひもといてみた。部分的に最近読んだ『見せ物からテレビへ』に入っていた論考もあったがほとんどが初見で、小見出しをみるだけでもワクワクしてしまう。

初めて目にした項目、「忠臣蔵のコミュニケーション」はことさらおもしろかった。歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』中にみられるコミュニケーションがどう現代のわれわれにも反映しているのかを検証した内容である。

松の廊下での刃傷事件のあと切腹を申し付けられた塩谷判官は、自身のすさまじい怨恨を最も信頼する大星由良之助に伝えたい。怨恨を伝える相手は大星以外にないという確信をもつ判官は、他の家臣が別れを申し出ても受つけない。ここからが著者加藤秀俊さんのきわめて「文学的」な解釈になる。

ひとりの人間が、生のさいごのコミュニケーションの相手として、信頼する唯一の人間だけを待ちつづけているこの姿は、悲痛な神聖感を舞台の上にかもし出す。

ここが他の社会学者、民俗学者、比較文化学者とちがうところである。そういえば柳田 國男、折口信夫の文章にも同じような文学の香りがたちこめていた。秀俊さんのは文体がもっとモダンだけれど。文学的と同じくらい、演劇的なんですよね。

大星を今か今かと待ちこがれていた判官の元に駆けつけた大星由良之助。ここは観客の期待値の「溜め」が最高潮に達している。もどかしく近くへ由良之助を呼びつける判官。が、この二人の間に交わされた会話は観客の期待に反したものである。以下加藤秀俊さんの文。

恨みを述べようとする判官を、大星は制するのだ。せっかくかけつけたのに、いま死んでゆこうとする主君からの言語的コミュニケーションを大星は拒否するのだ。なぜか。それはこの切腹の場が、公式の場であって、そこではこのふたりが語り合うべきこと、すなわち非合法の復讐の誓い、を言語化することができないからである。(中略)したがって、大星の判官に対する返答は、非言語的レベルで行われなければならない。(中略)もし私の記憶が正しければ、吉右衛門は「委細」とひとこと絶句したまま、しばらく間をおいて、右手で自分の腹あたりをポンとたたき、ツツツと二三歩下がって平伏するのである。(中略)アイマイな意味的状況を意図的に延長してきた大星は、このひとつのゼスチュアにすべてを賭けて、判官に確実な返信を送るのだる。それは歌舞伎の「思入れ」のもっとも洗練されたケースのひとつだ。

切腹というパブリックな場では「話すことができないから」話さない。周囲の状況がそうすることを許さない。だから非言語によるコミュニケーションを工夫せざるをえない。

そして秀俊さんはさらに深く洞察する。

『仮名手本忠臣蔵』にある、無言のコミュニケーションの美学は、君臣コミュニケーションの無条件的は意味同一性(それは忠臣蔵をつらぬく「没我」の精神のコミュニケーション
面のあらわれでもあろう)と、状況的なコミュニケーション障碍への適応、というふたつの側面から考えられなければならない。

「饒舌な」西欧の芝居と比較すると、この日本的無言のコミュニケーションは際立った対照をなす。歌舞伎ならずとも日本の古典劇にはこの傾向が顕著である。ひろく日本の文藝にもいえることだろう。秀俊さんの考察はさらに発展して、歌舞伎によくみられる死間際の告白に及ぶ。「自由な思いの発露である告白(「完全なコトバの行使」)、は生から死への移行の際にのみ許される」という彼の結論は、ことさらに興味深かった。