yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『瞼の母 長谷川伸傑作選』国書刊行会

先日長谷川伸の著作を探して大阪市立中央図書館へ行ったのだが、開架分では小説しかみることができなかったので、結局アマゾンで注文した。

瞼の母―長谷川伸傑作選

瞼の母―長谷川伸傑作選

昨日『瞼の母』、『沓掛時次郎』、『一本刀土俵入』、『雪の渡り鳥』(『鯉名の銀平』)、『中山七里』、『勘太郎月の唄』、『直八子供旅』と7戯曲が収録されていた。昨日最初の4作品に目を通した。その『瞼の母』、『沓掛時次郎』、『一本刀土俵入』、『雪の渡り鳥』はすべて大衆演劇の舞台でみたことがある。それぞれ大幅に変えられていたのではあるが。現在の劇団ではどことも座員の人数が少なくなっているので、それに合わせて芝居の中身を変えざるを得ないという事情がある。

『一本刀土俵入』だけは歌舞伎でもみたことがある。たしか茂兵衛が吉右衛門、お蔦が雀右衛門だった。吉右衛門は『加賀見山』、女形の岩藤しかいいとは思ったことがなかったので、この茂兵衛がよかったのが意外だった。その後、玉三郎のお蔦、勘九郎の茂兵衛でもみた。歌舞伎の場合は大衆演劇とちがい、役者の数でも舞台装置の点でも恵まれているので、きちんとした芝居をみたという気がするのは当然だろう。もう一つの大きな違いは歌舞伎ではもとの芝居を短縮する場合、それなりの工夫、たとえばちらしに粗筋を載せておくとか、筋書にカットしたところを書いておくとか、イヤホンガイドで説明するとかといった補完ができる点だろう。だから観ている側が「えっ、この話、どんな流れなの?」と訝ることが少なくてすむ。

大衆演劇で長い芝居を演じる場合、さまざまな制約のなかで演らなくてはならないというハンディが付いて回る。昨日読んだ作品のほとんどは歌舞伎やら映画になっているようだけど、おそらく中身のカットはされていなかったのではないか。もちろん脚色して変えたということはあるだろうけど。年配の観客は観劇歴が長く、長谷川伸の芝居はいやというほど観たことがあるだろう。だからべつにカットした部分を「説明」する必要はない。でも長谷川伸の芝居をほとんどみたことのない者にとってはなにがしかの説明は必須だろうと思う。

半次郎一家を助けるために土地のやくざをたたき斬った忠太郎、その咎が半次郎の母、妹に及ばないようにと殺したのは自分だという文書をしたためる場面で、序幕のクライマックスを迎える。文盲の忠太郎は半次郎の母の手に自分の手をそえてその文書を「書く」のだが、おもわずほろりとなって涙を流す。忠太郎の母恋の情がよくわかるシーンである。驚く半次郎、その母、妹への忠太郎の述懐、

忠太郎:お袋さん笑ってやっておくんなさんせ。五つの時に母親と生き別れをした忠太郎は、こうしていると母親に、甘えてでもいる気がするのでござんす。思い出して恋しさに、時々、忠太郎は、このーーこの面に青髭のある年になっても、餓鬼のように顔も知らねえ女親が恋しいーー恋しいのでござんす。

原作を読み、そして数日前のこのお芝居を思い返してみて、あらためて長谷川伸の台詞の、言葉の持つ力に驚かされる。現代版義太夫という体なのである。ながれるような台詞回しであると同時に、それぞれがとても力強い。つい最近まではこのクササが鼻につくと生意気なことを思っていたのに、これこそが日本語本来の力、美しさを表現していると遅まきながら気づいた。長谷川伸が文学史に残る(べき)作家だという認識をした瞬間だった。影虎さんはこの台詞をほとんど端折らず丁寧に演じられた。おはまと対峙する場面も、ほぼ原作通りだった。

先日のブログにも書いたのだが、圧巻は最終幕の「会ってなんかやるもんか」の部分だった。彼を探しにやってきたおはまと妹のお登世をやりすごして、

忠太郎:(母子を見送る。急にくるりと反対の方に向い歩き出す)俺あ厭だーー厭だーー厭だーーだれが会ってやるものか(ひがみと反抗心が募り、母妹の嘆きが却って痛快に感じられる、しかもうしろ髪ひかれる未練が出る)俺あ、こう上下の瞼を合わせ、じいッと考えていりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんの俤が出てくるんだーーそれでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。(永久に母子に会うまじと歩く)

忠太郎といえばこれと言う例の台詞が出てくる心理が克明に描かれている。影虎さんの忠太郎は葛藤する心持ちを、そのある種の幼さを上手く演じられていた。

長谷川伸が急に身近に感じられた。春陽座の澤村心座長、スーパー兄弟の影虎座長という芸達者の二人が演じた忠太郎、それぞれの解釈の面白さとともに説得力のある演技のおかげである。

この本の巻末に『御宿かわせみ』の作者、平岩弓枝さんの解説がついているが、それぞれの作品の特徴が要領よくまとめられていて役立つ。また、松岡正剛さんは「『相楽総三とその同志』]で長谷川伸の伝記作家としての別の側面をみせてくれて、興味深かった。いずれにしても長谷川伸観が変わるきっかけになった『瞼の母』であり、あと2冊ある「傑作選」も読んでみるつもりである。