yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

梅玉の『沓掛時次郎』in「第305回平成二十九年十一月歌舞伎公演」@国立劇場大劇場11月13日

配役は以下。

沓掛時次郎:中村梅玉
六ツ田の三蔵:尾上松緑
大野木百助:中村松江
苫屋の半太郎:坂東亀蔵
三蔵の女房おきぬ:中村魁春
太郎吉:尾上左近
安宿の亭主・安兵衛:市村橘太郎
安兵衛の妻・おろく:中村歌女之丞
親分八町徳:坂東楽善

人口に膾炙した作品なのであらすじは割愛する。長谷川伸原作。大和田文雄演出。

残念ながら時次郎は梅玉のニンではなかった。松緑が演じた方が良かったと思う。もともと優男の梅玉。つっころばし系を演じるか、殿様とかの位の高い武士、あるいは貴族などを演じるにはうってつけだけれど、博徒上がりの男という風情には到底見えない。あまりにも上品。もっとも、こういう優男系のヤクザがいてもおかしくはないけれど、それにはもっと屈折した陰翳のある役作りが必要になる。長谷川伸の芝居にはこの時次郎を始め、『瞼の母』、『雪の渡り鳥』、『刺青奇偶』、どの作品をとってみても主人公の男がそういうタイプ。侠気と人情味と二つを兼ね備えた男。ただ、まっすぐにすくすくと育った者特有のケアフリーさというのはなく、裏街道を歩いている男特有の暗さを背負っている。そんなの、梅玉のニンではおよそない。

松緑はそこにいるだけで、陰翳が醸し出せる。それは『暗闇の丑松』で証明済み。これも長谷川伸原作。歌舞伎の御曹司でこういう暗さを出せる人は、ほとんどいないように思う。松緑以外では巳之助か。陰影はある意味、近代的体臭とでもいうべきもの。人物造型を近代劇、あえていうなら西洋演劇的な造りにする必要がある。それをするには意識の上でかなりの「矯正」をしなくてはならない。つまり、歌舞伎だと各役は、歌舞伎そのものが作り上げてきた「世界」と齟齬がないようにその柄が決められている。役者が工夫や魂胆を凝らし、読み取って造型するにしても、それはあくまでも「世界」に収まる(はずの)ものである。

ところが、西洋伝来の近代劇にはそういう「世界」という約束事はない。だから役者は大海に放り出されたも同然。あとは演出家の指導に従って、というか合わせて、自分なりの解釈を役に施さざるを得なくなる。そこにぶつかり合い、摩擦が起きるのは当然。役者は演出家と闘いながら役造りをすることになる。あらかじめレールが敷かれている歌舞伎とは演出の方法がまるで違う。この不安定感が面白味でもある。でも歌舞伎役者でどれほどの人がそれを「面白い」って感じるだろうか。近代劇に自分を合わせるのは、ちょっと例えが悪いかもしれないけどまるでレイプされるような感じではないだろうか?

長谷川伸の作品、確かに股旅物といわれる古い形態ではあるものの、やはり歌舞伎のそれとは違って近代劇に相違ない。ベタの歌舞伎役者で長谷川伸作品を演じて上手い人がなかなか見つからないのはその所為だろう。大衆演劇の舞台の方が長谷川伸作品を打って上手くゆくことが多いのは、大衆演劇には歌舞伎的「世界」にあたるものがないか、もしくは薄いからかもしれない。

梅玉はまるで歌舞伎のように時次郎を演じていた。立体感がなかった。その点、最後にほんの数分登場した親分八町徳を演じた坂東楽善の立体感が際立っていた。なんと八代目坂東彦三郎なんじゃないですか。その存在感で歌舞伎とか近代劇を超越した空間を提供してくれた。すごいの一言。子供の頃にテレビドラマの子役で活躍されたとか。それが活きていたような気がする。歌舞伎一辺倒の役者ではないのは一目瞭然。この方と松緑と、そしてこのファミリーの方々で長谷川伸をやってもらいたいと思った。あの臭み、まさに長谷川伸ですよ。彼が『刺青奇偶』の最後の場面に登場する情深い親分を演れば、これ以上のはまり役はないだろう。是非!

魁春のおきぬは良かった。これ意外だった。歌舞伎の演じ方をあまり変えてはいなかったけれど、きちんと長谷川伸の枠内に収まっていた。

なんと子役の左近君は松緑の息子さんらしい。松緑家が絶えないことがわかり、心からうれしい。