いわずと知れた長谷川伸作品。猿之助の口上で興味深いエピソードが聞けた。、彼の祖父(初代猿之助)と祖母の仲人が長谷川伸だったのだという。その縁で長谷川作品を演じることが多かったそうである。新猿之助の祖父母はもちろん中車の祖父母でもある。二人が茂兵衛とお蔦で共演するのは、別作品の共演とは違った思い入れがあるだろうと察せられた。
去年5月に国立劇場で前進座のこの作品を観ている。記事にしたつもりなのに、ナイ!國太郎のお蔦、矢之輔の茂兵衛だった。お蔦は世をすねた蓮っ葉な感じがあまり出ていず、また矢之輔はあまりにもインテリ臭かった。玉三郎と亡くなった勘三郎のものもみたことがあるが、なんといっても最高峰はDVDでみた十七代勘三郎と六代歌右衛門の『一本刀』だった。こういうのをみてしまうと、つい比較するから良くないですね。今演じている役者さんをどうしても減点法で評価してしまうから。
これも猿之助が口上でいっていた(番付にもあった)ことだが、彼は「神谷町のおじさん」(つまり福助、橋之助のお父上の芝翫)にお蔦を習ったということだった。芝翫のお蔦をみたことがないのでなんともいえないけれど、歌右衛門とはちょっと違ったのではないか。今回の猿之助のは玉三郎に近いように思った。とはいえ、舞台はそのときのもの、演技もそのときのもの、ましてや私の記憶も何年も前のものなので、アヤシイのだけれど。記録に残しておけば、あとで記憶から引っぱり出すこともできたかもしれない。いつもそのジレンマを感じてしまう。
以下松竹サイトからの配役表と「みどころ」。
<配役>」
お蔦:亀治郎改め市川 猿之助
駒形茂兵衛:市川 中 車
波一里儀十:市川 猿 弥
堀下根吉:段治郎改め市川 月乃助
若船頭:市川 弘太郎
船戸の弥八:市川 猿四郎
清大工:市川 寿 猿
老船頭:坂東 竹三郎
船印彫師辰三郎:市川 門之助
<みどころ>
水戸街道の取手にある安孫子屋の店先で、酌婦のお蔦が取的の駒形茂兵衛に声をかける。一文無しだが、横綱を夢見る茂兵衛の話を聞いたお蔦は、立派な関取になるようにと茂兵衛に金を恵んでやる。これに感謝する茂兵衛は、いつかお蔦に横綱の土俵入りを見てもらいたいと約束する。10年後、横綱になる夢は破れ今は博徒となった茂兵衛はお蔦と再会。だが、お蔦の夫のいかさま博打が露見して、お蔦の家族は追われる身の上に。これを知った茂兵衛はせめてもの恩返しにお蔦たちを救おうとするのだが…。
昭和6年に東京劇場にて初演された新歌舞伎で、「股旅物」を得意とした長谷川伸の作品の中でも、義理と人情を描いて最高傑作と呼ばれる名作です。味わい深い名舞台をお楽しみください。
<みどころ>の最後の部分、「義理と人情を描いて」というところにいささか抵抗はあるのだけど、普通に受け取れはそういうことになるのかも。
猿之助のお蔦はさすがというべきか、すれっからし酌婦という退廃の中にも、色気が出ていて、秀逸だった。後ろ向きになるシーンが多いのだが、その姿にも投げやりの気の強さと同時に弱さ、儚さとが滲み出ていて、それが色気になっていた。とくに肩を少し落とした型に。これは歌右衛門のお蔦とも共通する演技だった。
一方の中車は猿之助と四つに組むところまではまだ至っていなかった。長谷川伸作品が「歌舞伎」であるとあらためて認識させられた。中車は決して下手ではないのだが、歌舞伎の発声ではない。それがこの役の「重さ」を表現できない原因である。猿之助の、あるいは他の演者の発声が「歌舞伎」のものである中に入るとどうしても「軽く」みえてしまう。「新歌舞伎」もやっぱり歌舞伎なんですね。歌舞伎の身体ができていないと、観ている側に訴えることができない。歌舞伎の身体は昨日今日の稽古で会得できるものではない。長谷川伸の作品は台詞そのものは現代語に近いので、現代劇の発声をしてしまいがちである。ところが、逆にそれが落とし穴。自明のごとく歌舞伎発声ができている歌舞伎の役者に交じってそういう発声をすると、それが目立つ。良い意味で目立つのではなく、「足らなさ」として目立ってしまう。
最近は新派づいている月乃助が端役だったのは少し残念。そんな役でも彼は全力投球していたので好感度アップ。
清大工役の寿猿と老船頭役の坂東竹三郎(音羽屋)のかけあいも楽しかった。竹三郎の口上も会場を沸かせていた。とてもカワイイ方。
辰三郎役の門之助もよかった。彼は顔が「派手」なので何をやっても目立つのだけど、ここではこの役どころを「地味」目に演じて、その実力が並々ならないことを証明してみせた。
そして私の好きな喜昇!お蔦の同輩の我孫子屋の酌婦役というちょい役で、出番も第一場だけだったけど、存在感があった。あの顔と態度(?)ですからね。