yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

團菊祭五月大歌舞伎@松竹座「女暫」、「汐汲」、『幡随院長兵衛』 5月25日昼

この22日に最後までみることができなかった昼の部、25日に再度行ってきた。

一番よかったのはなんといっても、時蔵の「女暫」。これが2回みれたので、満足。

時蔵は私が歌舞伎を最初にみたときの立女形だった。京都の南座で、出し物は『怪談牡丹灯籠』だった。歌舞伎版は三遊亭圓朝の落語『牡丹灯籠』がもとになっているが、その落語も中国の白話小説(怪談話を集めたもの)がソースである。時蔵の相手の立ち役は当時八十助の現坂東三津五郎。劇中劇的な工夫、それと時蔵の二役に衝撃を受けた。歌舞伎がそれまでみた演劇の中でもっとも進歩的だということに、ほんとうに度肝を抜かれた。この衝撃がなかったら、歌舞伎を見続けなかっただろうと思う。西洋演劇が模索していた演出法を何百年前に歌舞伎が既に考案していたというのは、もっと強調されて然るべきだと思う。

これで時蔵と八十助のファンになった。でも当時、勘九郎(現勘三郎)とか福助などに比べると主流ではないようで、残念な思いをしていた。時蔵の演じた役で印象に残っているのは八百屋お七。どのお七をみても、どうしても時蔵のそれと比べてしまう。

「女暫」はひっこみのアドリブが面白かった。それまでのシーンはコミカルな部分もあるにはあったが、約束事の上に乗っかったものなので、そう面白くはない。でもひっこみでの時蔵は、市川宗家の十八番狂言をすることの重荷、重圧を「正直に」吐露するところとか、衣装がいかに重いかとか、面々と述べ立てる。それが珍しく、面白かった。市川左団次が助っ人に出てきたのだが、彼に向かっても面々と大変さを口説き立てるのも、一興だった。

一等おかしかったのは、引っ込みの総仕上げの六法を「女だからできない」とだだをこねるところだった。中途半端な六法で引っ込むのだが、それを左団次が追いかけるのもおかしかった。

坂田藤十郎丈の「汐汲」、残念ながら以前のような切れがなかった。やはりお歳には勝てないということか。松風という役柄は能にも歌舞伎にも舞踊にも頻繁に使われる役柄なので(つまり、あまりにも人口に膾炙しているから)、一つの固定したイメージが出来上がっている。もちろんそれは物狂いのイメージで、そこのところ、つまり都に帰ってしまった行平を思うあまり狂ってしまったという、そのイメージをどう表現するかが鍵になる。はかなさ、あやうさ、かなしさといった要素が舞踊に出せないと、松風を踊ることにならない。

『幡随院長兵衛』は水野役の菊五郎が秀逸だった。團十郎は長兵衛にしては、すこし線が細かった。感動したのは、今回初めて劇中劇の形で芝居の中で芝居が演じられるという演出だった。以前にみたものではこの部分がなかったので。芝居の中で芝居が演じられるというのは、西洋演劇ではシェイクスピアの『ハムレット』、『真夏の夜の夢』等があるが、日本でも江戸期にすでにそういう演出法が考えられていたということは、誇ってもいい。日本人は昔から骨の随からの芝居好きだということが、歌舞伎をみてもよく分かる。

以下は團菊祭の番付け表紙。