yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「女暫(おんなしばらく)」in 壽初春大歌舞伎@歌舞伎座1月3日夜の部

以下、「歌舞伎美人」からの引用。

<配役>
巴御前     玉三郎
蒲冠者範頼   歌 六
清水冠者義高  錦之助
女鯰若菜    七之助
茶後見     團子
手塚太郎    弘太郎
紅梅姫     梅丸
家老根井行親  橘三郎
局唐糸     笑也
成田五郎    男女蔵
轟坊震斎    又五郎
舞台番辰次   吉右衛門

<みどころ>
女方が見せる荒事の様式美
平家追討に功をあげ、今や権勢を誇る蒲冠者範頼は、大勢の家臣を引き連れて北野天満宮で宴を開いています。家来たちが口々に祝儀を申し立てる中、居合わせた清水冠者義高は、傲慢な態度を取る範頼を諌(いさ)めますが、激怒した範頼は成田五郎らに命じ、義高一行の命を奪おうとします。そのとき、「しばらく」と声がかかり現れたのは巴御前。女ながら武勇に優れた巴御前は、義高たちの危機を救おうと範頼に意見をし…。

荒事の『暫』を女方が演じる趣向で、歌舞伎ならではの演出として、幕外での巴御前と舞台番のやりとりも華やかな舞台をご堪能ください。

見せ場はもちろん巴御前の武者そこのけの勇壮ぶり。蒲冠者範頼の家臣たちがつぎつぎにやっつけられるのが、実に爽快、痛快。この爽快さは、歌舞伎の様式美にあくまでも則ったもので、その法則通りにことが運んだ爽快さで、丁々発止の闘いから生じたものではない。巴と轟坊震斎を始めとする範頼の家臣との「闘い」もすべて方程式通り。つまりいわゆる「立ち廻り」はあくまでも形の美しさをみせるもので、大衆演劇、新国劇等の立ち廻り、殺陣の類いとはまったく次元の異なるもの。ある出来事に対する人物の反応はリアリズムからかけはなれたフォームで表現される。つまり一度括弧に入れた形で示される。こういうメタ化は江戸歌舞伎の、とくに成田屋の十八番狂言の特徴。

「暫」はもちろん成田屋の十八番。他家が演じるときは市川宗家の了解、許可が要る。今回、玉三郎はその「許可」を得て、成田屋の紋の三升を使っている。その方が「見得をしたときに、すっきりすると思うのです」とは玉三郎の弁。付け加えて曰く、「『強力無双の勇者』を女性ではなく女方がやることで、役が何重構造にもなります。また女方が演じることで軽さが出て、華やかさも増したのではないでしょうか」。メタ化の有効性、とくに成田屋十八番ものに通底するそれをみごとに言説化している。さすが聡明な玉三郎。

以前に時蔵で「女暫」を観ている。このときも玉三郎のいうところの重層構造に魅惑された。今回は玉三郎で、これ以上ないほどの贅沢な配役。見せ場はもちろん最後花道の引っ込み。時蔵は六法で引っ込んだけど、玉三郎はそうしなかった(座席が三階の舞台に向かって下手端でよくみえなかった)と思う。でも吉右衛門が舞台番として巴を「サポート」する役で登場。二人の掛け合いが微笑ましかった。もちろん吉右衛門は「暫」を演じたことがある。それを「差し置いて」女(方)の自分が演じるということの、羞恥を表現したのが可愛いかった。