今日再見して、あやふやだった箇所が多少は埋まったような気がする。ここまで意趣に富んだ狂言なので、個人の印象、解釈、ともにその人独自のものになるはず。奥の深い作品である。その人の歌舞伎との付き合い方に応じて、理解が異なるのは、優れた作品である証左。ぼーっと見ているだけでは、こちらに入ってこない。国立劇場にかかる通し狂言は、この手のものが多い。いわば「人を選ぶ狂言」というべきか。その意味では、知的な観客のみ惹きつける作品なのかもしれない。こんな「贅沢」ができるのは、国立劇場ならでは。この路線を貫いて欲しい。
昨日アップした記事で、アリュージョンについて書いたけれど、今日、さらに多くの気づきがあった。まず、「お菊」関連からの『播州皿屋敷』の連想。ここから近代に飛ぶと、泉鏡花の『天守物語』のイメージが重なる。2014年版の『天守物語』、玉三郎が主役の富姫。連れの亀姫を演じたのは尾上右近だった。
さらに、お辰(菊之助)が、主の世嗣、国松君を匿い、家に紛れ込んできた童子を身代わりに立てようとするところは、「寺子屋」のモチーフ。さらには、幼子ふたりが声を合わせて歌を歌う趣向は、『伽羅先代萩』と重なる。こういった諸々のモチーフ、そして個々の役者が今までに演じた役柄が重なり合って、重層的メロディーを奏でている。一つでも思い当たればそれだけで、なんか嬉しくなる。唱和したくなってしまう。
そうそう、『播州皿屋敷』に出てくる「お菊井戸」へは、小学校の遠足で行ったことがあった。お菊が「一枚、二枚、三枚 . . . . 」と皿を割る場面は、子供心に強烈な印象を残した。恐怖心だけではなく、この物語に隠されている(禁断の)エロティシズムに、「聴いてはいけないことを聴いてしまった」と、感じたのかもしれない。
これまた個人的な話で申し訳ないのだけれど、この作品に出てくる地名が私の母の出身地に関係したものが多いのに驚いた。「印南」は母の出身地、「曽根」、「高砂」は親戚の住んでいるところ。また、第四幕の舞台になっている尾上神社は、能の「高砂」に出てくる「尾上の松」の場所ですよね。世阿弥の能「高砂」の詞章が甦ってきた。舞台も松の大木と神社が背景になっていた。能絡みの場面になると、嬉しくなってしまう。
今回二度見て、作品理解が多少進んだ気がする。東京住まいなら、もう一度見たいところなんだけれど。国立劇場の「復活狂言」は実に挑戦的な(と同時に地味な)試みで、一度観劇するだけでは到底そのプロジエクトの奥行きを、感じ取ることはできない。常々それが残念だった。
また、その挑戦を真に理解し、受け止め、評価する人がさほど多くないことが、気にかかっていた。でも、今日の客席は、今まで以上に埋まっていたし、活気があった!どう言ったらいいんだろう、今までにないエネルギーの集積を感じた。やっと、この試みを理解できる人たちが観劇するようになってきたのかもしれない。確実にその層は増えている。それを実感できたのが今月だった。おそらく、初めて。国立劇場創設に関わっていた三島由紀夫も、少しはホッとしているかもしれない