yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「冥界への下降譚」としてのバレエ

ミハイロフスキーバレエ、「海賊」でのルジマートフ。彼へのオマージュを捧げた三浦雅士氏の著書『バレエの現代』。

「冥界への下降譚としてのバレエ」は彼が当該書の巻頭に言明していること。「過激」に聞こえるかもしれないけど、バレエの本質に迫っている。なぜバレエがあれほどに人の心を捉えて離さないのかを。次の一節。

どんな舞踊も生と死の両極を秘めている。

『白鳥の湖』も、生と死の両極を秘めている。王子は、死者の国、冥界を訪れて、女性に出会うのである。これを冥界下降譚というが、古代の残滓ではない。舞踊は生と死にかかわらないと成立しないのである。身体を表現の手段にするということはそういうことなのだ。人間は、身体という場において、生まれ、成熟し、老いて、死ぬ。舞踊がときとして恐怖を感じさせるまでに美しいことの、それが理由である。舞踊ほど宇宙を、コスモスを感じさせる芸術はない。

「そこまで言い切るの?」って、一瞬怯んでしまうけれど、次の瞬間には頷いている。「そう!」って。

図書館で三浦雅士著ということで、引き寄せられるようにしてこの本を手に取り、立ち読みでざっと読んだ。足りなくて、借り出した。今手許にある。彼が2年間滞在したのは、1980年代のNY。そのとき、人の関心が演劇から舞踊に移ったのを実感したという。世界的にイデオロギーの季節が終わったからだと、彼は結論している。ただし、その後、「舞踊の拠点はNYからヨーロッパに移ってしまった」。

私は80年代のNYを知らない。でも90年代終わりから現在のNY については、これは当たっているように思う。METは確かに世界のオペラの中心であり、世界中からトップシンガーを集めている。でもバレエはどうなんだろう?ヨーロッパに比べると、そこまでの充実はないように感じる。バレエはやはりロシアであり、パリである。

三浦雅士氏が青土社の編集長の地位を捨てて、『ダンスマガジン』を創刊し、その編集長に収まった時には驚いた。例の「ニューアカ」の仕掛人でも会った人の転身。でも、今ならわかるような気がする。

ひとつ嬉しかった発見。彼が武智鉄二を読み込んでいたと分かった。そういや、アメリカ文学会の大会での講演、武智の「なんば説」を披露したのは彼だった。実演までしてくれたっけ。それが契機になり、武智鉄二の「歌舞伎論」を読み始めたんだった。

そして、もうひとつの発見。羽生結弦さんのスケートになぜこれほど惹かれるのか。なぜ彼のスケーティングはここまで人を感動させるのか。それは彼の演技がバレエと共通したこのテーマ、「生と死の両極」を私たちに見せてくれるから。あの「花は咲く」の演技はまさにそれを表象していた。