yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「ルジマートフ メランコリックな風の精」in 『バレエの現代』by 三浦雅士

4年前にみたミハイロフスキーバレエ団(レニングラードバレエ)の『海賊』。これがバレエに嵌るきっかけになった。そのとき、舞台監督、かつ海賊、コンラッド役をしたルイジマートフ(ルジマトフ)の才気溢れる演出に感動した。記事にしている

三浦雅士さんが『バレエの現代』(文藝春秋社、1995年刊)でその魅力を詳しく論じている。

ファルーフ・ルジマートフほどメランコリーを感じさせるダンサーはいない。息を呑むほどに華麗だが、その姿には憂愁とでもいうほかない雰囲気が色濃く立ち籠めているのである。

跳躍も回転も群を抜いて素晴らしい。その身体はまるで研ぎ澄まされた鋼のように大気を切る。大気を切って風に乗る。風に乗ってしなう。しなやかにしなう。しなうけど鋭く強い。なんという美しさだろう。観客は固唾を呑んだまま、踊り終えて舞台中央にすくっと立つルジマートフを見つめるのだが、この風の精はすでにひっそりと孤独なのだ。全身に憂いを湛えて立っているのだ。その雰囲気が、しかし、さらに見る者を魅惑する。孤独な憂愁が見る者の胸を突き刺すのだが、その痛みは甘く切なく美しい。

こんなダンサーはほかにはいない。ヌレエフトもジョルジュ・ドンとも違う。ルジマートフの漂わせるエロティシズムは性的ではない。そのエロティシズムは胸苦しいほどだが、しかしそれは、ただひたすらその憂愁、矛盾しているようだが、華やかとかいうほかない憂愁から、噴きあげてくるのである。

ぼくは海賊が似合っているとルジマートフは言う。そのとおりだろう。『海賊』でいえば、王子のようなコンラドではなく、海賊そのもののアリの方が似合っているというのである。

熱い感情の迸りが窺える賞賛の辞。もう4年も前になる『海賊』の舞台のサマが蘇ってきた。でもそのときルジマートフはアリをレベデフに譲り、自身はコンラッドを踊った。いずれも素晴らしかったけど、三浦氏の言にあるように、アリで見たかった。私が記事に挙げている写真は幸運なことに、削除されていないので、二人の華麗なパ・ド・トロワが見られる。三浦氏の主張では、このガラでもよく踊られる海賊のパ・ド・トロワはコンラッドの役とアリの役とが重ね合わせて踊られるのだという。そこでもルジマートフが踊るのは、あくまでもアリの踊りだと。彼は目の前のメドーラと踊っているのではなく、不在の恋人と踊っているのだと、そして、そう思わせるところに、ルジマートフのメランコリーの魅力があるのだと。

ルジマートフはまだミハイロフスキーバレエ団の芸術顧問なのだろうか。それ以後ミハイロフスキーバレエを見ていないので、わからない。英語のwikiでも詳細は判らず。ミハイロフスキーとパリ・オペラ座がなんといってもバレエの最高峰だと確信しているので、こんな美しいオマージュを読んでしまうと、矢も盾もたまらなくなる。サンクトペテルブルクに行きたくなる。