yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

チラ見は欲望をいや増す?能「綾鼓」(in シリーズ「邪と悪と激」)@大槻能楽堂 1月28日

大槻能楽堂は「シリーズもの」の面白い企画をしているが、これもその一つ。テーマを、例えば今回のように「「邪と悪と激」に絞り、それに見合った能を取り上げる。ただ、実際の舞台実演のみならず、その背景や解釈等のレクチャーが抱き合わせになっている。以下、今回の「綾鼓」の演者とあらすじ。

• 前シテ 老人       友枝昭世
• 後シテ 老人の怨霊    
• ツレ 女御        内田威信
• ワキ 臣下        福王和幸
• アイ 従者        茂山千三郎

<あらすじ>
筑前国の木の丸の皇居に仕えている臣下の者がいる。そこには桂の池と言う大きな池があり、管弦の遊びが催されている。そこで臣下の者が言うには、庭掃きをしている老人が女御の姿を見て心乱すほどの恋に落ちてしまったという。それを知った女御は不憫に思い、桂の木に鼓を掛けて老人に打たせ、音が皇居に届けば姿を見せようと言われたので、そのことを臣下は老人に伝えた。老人は、この鼓の音を鳴らせばそれが恋心の慰めになると思い打つが、音は鳴らない。老人はこの年で心を乱すような恋をしたはかなさを思いつつも、思っている方が忘れようとするよりも良いと思うのであった。人間はいつどうなるかなどわからないものであり誰も教えてくれはしないけれど、もしわかれば恋に迷う事などなかったであろうと思いつつも、鼓の音が出れば心の闇も晴れると思い昨日も今日も打ち続けるが音は出ない。鳴る神でさえ思う仲を裂けぬと聞くのに、それほどまでに縁がなかったのだろうかと我が身を恨み人を恨み、もう何のために生きているのかわからないと思い、憂うる身を池に投げて死んでしまった。

それを聞いた臣下は、女御に老人が身を投げた事を告げ、このような者の執心は恐ろしいゆえ池に出てご覧下さいと言う。女御が池に出てみると池の波の打つ音が鼓の音に聞こえてきた。臣下は女御が普通ではないと思ったが、女御は、そもそも綾の鼓は音が出るはずが無く、その鳴らないものを打てと言ったときから普通ではないのです言い、なおも鼓の音が聞こえてくるのである。そして怨霊となった老人が現れ、愚かなる怨みと嘆きであるが、この強い怒りは晴れるものではないと言い、ついに魔境の鬼となってしまったのだという。そして鳴らない鼓の音を出せとは、恋の思いを尽くさせて果てよという事だったのかと女御を責めた。この鼓が鳴るはずがない、打ってみなさいと笞をふりあげて女御に迫り、女御は悲しいと叫ぶのであった。冥途の鬼の責めもこのようなものかと、それでもこれほどの恐ろしさでは無いと思える程の恐ろしさであり、因果とはいえどのようになってしまうのでしょうと言った。怨霊は、このように因果ははっきりと現れるものだと言った。そして女御に祟り笞で打ち据えるうちに池の水は凍り、大紅蓮地獄のようになり、身の毛もよだつ悪蛇となって現れているという。そうして恨めしい、なんと恨めしい女御だと言いながら、恋の淵のように深い池に入って行った。

「綾鼓」には三島由紀夫の『近代能楽集』で出逢った。アメリカの大学院で博論を仕上げていた時のこと。その第二章で『近代能楽集』の主要な作品を論じたのだが、「綾鼓」はその一つだった。『近代能楽集』中、最も好きな作品だった。とはいえ、能作品の「綾鼓」を観たことがなかったので、隔靴掻痒感は否めなかった。それから幾星霜、やっと能舞台で「綾鼓」を見る機会を得た。やっぱり感動した。『近代能楽集』の「綾鼓」とそう違わない印象だった。三島が「綾鼓」のキモを深く理解し、しっかりと自身のものにしていたからだろう。

私はこの作品と「覗く」(窃視)というテーマは、切っても切り離せないものだと思う。これは精神分析学に依った文学批評には頻繁に出てくるテーマ。欧米の映画論ではおなじみのテーマでもある。ただ、日本の文学の批評ではあまり見かけないように思う。特に演劇関係では。演劇であれ、映画であれ、視線の問題を避けては通れないので、残念。

庭掃きの老人の不幸は、あまりにもの美しい女御の姿を垣間見てしまったところにある。この「垣間見る」というのがミソ。オープンな空間で「見た」のとは決定的に違う。一つの「事件」になってしまう。見る者の視線のベクトルの方向は同じ。でもそこにかかる負荷の質量が違う。それが見る者の欲望をかき立てる。

事件ということであれば、『源氏物語』にも、重要なきっかけを作るものとしてこの事件が出てくる。やすやすと高貴な女性を「見る」ことができなかった状況では当然起こりうる事件だった。最も有名なのは、「野分」で夕霧が紫の上を垣間見てしまうところだろう。また、「若菜」で柏木が女三宮を見てしまうところだろう。いずれも老人ではなく若い男。彼らでも恋慕の度が限りなく高まったことを考えると、「綾鼓」の老人の思いが叶うことが不可能な身分違い、年齢違いのものであるだけにより強かったと想像できる。彼の恋慕の思い、そしてそれが愚弄されたと分かった時の失望と怒り、そして嘆きはいかほどのものだったか。自ら死を選び、そして怨霊となり、女御に取り憑いたのも必然。

こういう思いの強さは三島作品でも胸を打つほど描き込まれている。でもどちらかというと、老人の思いと哀しみの不条理性が立ち上がらせられている。彼が思いをかけた女性がさほど素晴らしい女として描かれていないから。恋慕なんていうのが幻想の上に成立するものであるという「事実」の方がより立ち上がってきている。

能の「綾鼓」が描くのは恋慕の不条理性というより、やはり怨霊になった老人の恋慕の強さだろう。理では割り切れない情の強さ。それに溺れてしまった者の不幸というより、あっぱれさというか、崇高さというか、そちらにより重点が置かれているように思う。

能の舞台で見る「綾鼓」。どこまでも簡素なしつらえ。舞台前面に置かれている木。そこにぶら下がっている鼓。それを打つ老人。ならない鼓に絶望する老人。悲劇性が際立つところ。哀しみがしんしんとこちらに伝わってくる。能の「綾鼓」の最も美しく、感動的なところ。シテを演じられた友枝昭世師の演技は極めて抑えられたもの。その抑圧は後場で女御をうちすえるところで、解放される。ほとばしる怒り。恨みの鬼になっている。この激しさが先ほどの抑制と際立った対比になっている。このコントラストを友枝昭世師は劇的に表現していた。実際の能舞台ならではの「憑依」を目撃してしまったのだと感じた瞬間だった。