yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

狂言「節分」in 「能と狂言」@京都芸術劇場 春秋座1月29日

渡邊守章氏企画、監修の「能と狂言」。この日は時期に因んで「節分」。能が「鵺」で共同体の穢れを負わされ、放逐される生き物を描いているけど、鬼もそれと同じ役割を担わされていることが多い。「節分」という行事もまさにそれ。狂言「節分」、今回は能「鵺」の前に演じられた。以下が春秋座サイトから採った演者とあらすじ。多少補足している。

シテ鬼  野村万作
アド女  野村萬斎   
地謡   中村修一 高野和憲 内藤連

大鼓   亀井広忠  
小鼓   大倉源次郎
笛    藤田六郎兵衛

後見   深田博治

大晦日から今日の節分まで夫は出雲の大社で年取りにこもっていて留守である。女は、節分には蓬莱の島に住む鬼がやってくるというので、柊をさして戸締りをする。そこへやってきた蓬莱の島からやってきた鬼。遠いところからやってきたので、腹が減ったといって人家を探すと家があるので覗き見てみると柊が目に刺さってしまう。怒って柊を叩き落して覗きみると、中にひとりで女がいる。

鬼は女の家の戸を叩くが、女は夫が留守だと言って開けてはくれない。何度も叩く。観念した女が戸を開けると人の姿がない。鬼は蓬莱の島から持ってきた姿の見えなくなる箕を着ていたのである。

箕を脱いで、再び女に戸を開けさせる。戸を開けるとそこに鬼がいるので、女は大層驚いて帰ってくれというが、鬼は腹がへったので何か食べさせてくれたら帰るという。女が麦を出すと食べられないといっておしやってしまう。

女は怒るが、鬼は一向に気に止めず、蓬莱の島に流行る小歌を歌いながら女を口説き始める。心を許したと見せかけた女は、本当に自分に惚れているのなら、宝物を差し出せという。鬼は蓬莱の島から持ってきた宝をやるのは簡単なことだといって女にやるが、女は鬼を騙すつもりだった。豆を取り出し、福は内、鬼は外といって鬼を追いだしてしまう。

鬼の目にも涙!?強いはずの鬼がかえって人間らしく描かれ、弱いはずの人間の心に棲む鬼の姿を描いています。技術的にも体力的にも難しい演目です。

なんといっても万作さんの鬼が素晴らしい。身体そのものがきちっとした型になっている。どこまでも折り目正しい。だが、それが硬くない。しなやか。流れるような動き。それがときとして外れる。この間合いが絶妙で、そこに笑いが起きる。「流れと中断」の組み合わせはきちんと計算されたもの。でも滲み出る品格は役者自身のもの。身体と内面との調和。調和のうちにに匂い立つ華やぎ。「野村万作」という演者の身体を通して現れ出る花。狂言でこういう経験は今までになかったので(尤も観劇歴は数えるくらいなのだけど)、驚いた。そういえば随分前に東京の国立能楽堂で彼の「釣狐」を見たことを思い出した。細部はまるで覚えていないのだが、素晴らしかったという印象は残っている。

「技術的にも体力的にも難しい」というのが頷ける。彼は日本の芸術の至宝。体力的にかなりきつくなってきておられるに違いない。だから時を惜しんで見ることにしたい。

萬斎さんのアドも良かった。このお父上の至芸と常に対峙するというのは、大変だろうって思った。さすが掛け合い部分の互いの間の取り方は完璧だった。こちらも型を外さず、きちんと演じられる。でもお一人で演じられるときよりも、いささか「遠慮」があるように感じた。それは父上の体を気遣ってのことだったのかもしれないけど。八十代の肉体と五十になったばかりのそれとは組んだ時、若い側に自ずと怯みのようなものが生まれるのかもしれない。

去年、大槻能楽堂でお二人の狂言を観たのだけど、その時とは感慨がだいぶん違っていた。この得難い機会。ありがたい。