yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

大槻能楽堂自主公演能 能の魅力を探るシリーズ《知性と孤独》「船橋」@大槻能楽堂12月17日

大槻能楽堂は今年の7月に野村万作/萬斎さん親子の狂言公演を見に行って以来。格式のある能楽堂。

この自主公演はいくつかの能の演目をテーマごとに分け、それぞれに解説がつくという形式で進められてきているプロジェクト。もっと早くに知っていたらと残念なのは、この解説者が錚々たる面々だから。しかも《知性と孤独》シリーズの最終回。今日は元々は山折哲雄氏だったところ、天野文雄氏に代わっていた。天野文雄氏とは? Wikiで当たってみたら、美学者、能楽研究家で、現在は京都造形芸術大学舞台芸術センター所長をしておられる。解説が的確、これから観る能への興味が掻き立てられた。大学の講義を聴いているように思ったのは、大阪大学でも教鞭をとっておられたからだろう。学術的に深く掘り下げられたのは、やはり研究者。

以下に当該サイトからの情報をアップしておく。

■お話「愛の終焉は」
天野文雄
■能「船橋」
浅井文義(シテ)
大槻裕一(ツレ)
福王茂十郎(ワキ)、森本幸冶,広谷和夫(ワキツレ)
小笠原匡(間)
大野誠(笛)、荒木建作(小鼓)
山本哲也(大鼓)、前川光長(太鼓)

天野氏によるとこの「船橋」という曲はあまり演じられることがないものだとか。彼もご覧になったことがないとおっしゃっていた。それでもさすが、上演詞章に沿って丁寧に解説してくださった。

夢幻能の常套でこの世に思いを残す亡霊が出てくるのだけど、その霊は旅をかける山伏(僧)の祈りに応じない。調伏されず、救いを得られないままに終わるというパターンは珍しいとか。他では「定家」などがそれに当たるらしい。

以下にWikiから借用したあらすじを。ただし、最後を上演詞章の内容に合うよう「訂正」している。

熊野三山で修行した山伏たちが、松島、平泉に向かって旅をしている。上野の国佐野に着いた所で、里の男と女が船橋を造っていた。男と女は昔の跡が恋しいと言いながら、迷いの道に至らず、悟りの道に至るために橋を渡そうと思っていると言う。そして、橋を渡すために、山伏に勧進を求めてきた。そして、ここは昔男女が恋い焦がれながら川に沈んだ場所であると、万葉集の歌を引き合いに出し、二人を救うためにも橋を架けたいと言う。役行者も昔、岩橋に橋を渡したのだからと引き合いに出し、勧進を迫る。

山伏がさきほどの万葉集の歌の意味を尋ねると、男は、昔ここに住むある男が、川をへだてた向こうに住む女に憧れて、毎夜船橋を渡って通っていた話をしはじめる。それを良く思わない親が橋の板をとりはずしたために、男は川に落ちてしまい、そのまま亡くなり地獄で苦しむ。それでもなを恋しく、邪淫の思いに身を焦がしているという話を語って聞かせた。そして男は、その男こそが自分であると告げ、弔って欲しいと山伏に言う。

山伏は男女の霊を弔うと、女の霊が現れ仏法の力で救われたと感謝する。しかし男の霊は妄執のために成仏できないでいた。そこで男の霊は昔の所業を懺悔するため、女のところに通ったときのことをそのまま再現する。そして妄執のために悪鬼となって自分を責め、苦しみの中に沈んで行く。

多様な掛詞、縁語が駆使され、それらによって複層的なイメージが湧き起こる。そこに「船橋」という題の由来になった万葉集の歌が挿入されることで、イメージのシンフォニーとでもいうべき世界が展開する。イメージに次ぐイメージ。華麗な詩歌の世界。しかし謳われているのは怨念。語っているのは怨霊。このミスマッチとでもいうべき矛盾をその一身に背負って舞うシテ。ここではシテは亡くなった男である。彼が身を焦がすのは邪婬の念。浅ましい念に取り憑かれた男だけど、シテの浅井文義氏は淡々と舞われた。私はシテが男だというのは初めてだったので、この淡々ぶりが衝撃だった。「葵上」とか「野宮」なんてのはシテが女で、その情念が迸り出るような激しい舞だから。シテは最初は直面で後場から夜叉面。でもそのお面の表情もどこか悲しげで、おどろおどろしいものではない。

シテツレ(想われ女)は面を被って登場。こちらもどこまでも控え目でもの静か。これって、いわゆる高貴な人間たちが激情を吐露するのに対し、普段から自分を躾けている庶民の話だから?このあたりのことはよくわからない。

ワキの福王茂十郎氏もシテにに呼応するかのように、静かに演じられた。悟りをひらいた僧だけど、この邪婬に苦しむ男を救うことができなかった。その悲しみのようなものを演じておられた。

悲しみといえば、地謡の人たちの声がとても良かった。もちろんシテ、シテツレ、ワキのそれぞれの演者の声も艶と奥行きのある声。地謡もそれをサポートする素晴らしい声。これこそが能の最も魅力的なところなのかも。こちらの心の琴線に触れ、感情の漣を引き起こす。根底から揺さぶりをかける。

「船橋」はもと田楽能だという。だから高貴な人が登場しないのだろう。それを世阿弥が改作したのだとか。田楽の形を幾分かは残しているだろうから、文献としても貴重なもの。このどこか鄙びた感じも捨てがたい。