演目の演者一覧が以下。
シテ 宮本茂樹
シテツレ 河村和貴
ワキ 岡充
アイ 茂山茂 島田洋海 井口竜也
笛 左鴻泰弘
小鼓 林大和
大鼓 石井保彦
太鼓 前川光範
後見 杉浦豊彦 大江又三郎
地謡 河村和晃 河村浩太郎 木下千慧 浦田親良
橋本忠樹 大江信行 深野貴彦 大江泰正
今月の観世会例会の能演目は3本。最後が『大会』だった。今までに見たことのないもの。しかもシテが昨年の「大連吟」の師匠の宮本茂樹師。前の2本の能とはまるで違った、まるで活劇のような能だった。午後の睡魔が吹っ飛んでしまった。能らしくない能なので、観世信光作かと思ったほど。作者は不詳。でもテイストから、世阿弥よりもずっと時代が下った頃の作品だと推察できる。ワクワク感満載の楽しい舞台で、能初心者に見せるにはうってつけの能作品だと思う。例によって「銕仙会能楽事典」から演目解説をお借りする。
作者 不詳
場所 比叡山
分類 五番目物 天狗物
概要
比叡山で修行していた僧(ワキ)のもとに、一人の山伏(シテ)が訪れ、以前命を助けられた者だと言って礼を述べる。実は、僧はかつて京童たちにいじめられていた鳶を助けたのであった。鳶は天狗の仮の姿というが、その天狗が、今度は山伏の姿でやって来たのである。望みがあれば何でも叶えようと言う山伏に、僧は、釈迦が法華経を説いた時の様子を再現して見たいと言う。山伏は「叶えるが、それを見ても信心を起こしてはならぬ」と言い置き、消え失せた。僧が目を閉じて待っていると声が聞こえてきたので、目を開けるとそこには大天狗の扮する釈迦如来(後シテ)が、大勢の弟子達に囲まれて説法をしていた。僧は先刻の約束を忘れて思わず信心を起こしてしまう。そのとき、天から帝釈天(ツレ)が現れ、信心深い僧を幻惑したとして大天狗を責め立てる。通力も破れ、もとの姿に戻った天狗は、帝釈天に対して平謝りに謝ると、ほうほうの体で逃げ帰っていった 。
みどころ
本作は、天狗を主人公とする能です。
天狗といいますと、顔が赤くて鼻の長い、羽の生えた妖怪をイメージする方が多いのではないでしょうか。しかし実は、この天狗のイメージは近世(江戸時代)に入って定着したもので、中世(鎌倉~室町時代)においては、むしろ猛禽類のイメージで描かれていました。天狗は人前に姿を現すときには鳶(とび)の姿となると言われており、鋭い嘴(くちばし)が、天狗のトレードマークとなっていたのです(羽が生えていることは江戸時代と同様です)。(略)
本作の後場では、後シテとして現れた天狗が、釈迦の説法の場を再現して見せます。近年ではこの場面で、後シテのかける「大癋見(おおべしみ)」の能面の上からさらに、仏像さながらの「釈迦」の面をかけ、上記「5」の場面での早変わりをより強烈に印象づけるという演出が多くなされています。“釈迦から天狗へ”の早変わりは、本作のみどころの一つであり、視覚的に楽しませてくれることでしょう。
ユーモラスで、ちょっと可哀想な天狗の失敗譚を描いた、楽しい舞台となっています。
たしかに天狗の処遇は割りに合わないすよね。僧(ワキ)を幻惑した廉で帝釈天にさんざん打ち据えられるなんで、実に割りに合わない!善意から出ていても、所詮天狗は「邪」のものっていうことなんでしょうが。どこか承服できない感が付きまとうところも、この作品の面白味かもしれない。一種のコメディなんでしょう。
コメディといえば、あの大仰な「大天狗の扮する釈迦如来(後シテ)」もなかなかのもの。かなりヘン。チラシ表がそれに当たる。
ね、ヘンでしょ?このお釈迦様があとで天狗になるのだけれど、それを再び「銕仙会」サイトに掲載されている写真(2011年12月定期公演「大会」シテ:西村高夫)でご覧ください。こんな感じです。
もう一枚。後ろは帝釈天。
今日の『大会』、シテは運動能力の高い若手でなくては務まらなかっただろう。その点で宮本茂樹師はまさに適任。軽やかに、かつ大胆に天狗を演じられた。シテツレの河村和貴師の帝釈天もイキがよかった。このお二人の連舞いがみごとだった。これを見ることができて、京都まで出向いた甲斐があった。
また、出向いた甲斐があったといえば、前川光範師の太鼓が久しぶりに聴けたこと。お父上の演奏は頻繁に聴いていたのですけどね。お二人とも華やいだ、そして躍動感に満ちた演奏をされる。
京都観世会例会も今月と来月の2回を残すのみ。混雑が予想されるので、今回から前売り券の発売はないとのこと。手元にある前売り券綴りはあと1枚残すのみ。それを今日使ってしまったので、来月は残念ながら諦めるしかないかも。