yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

味方玄師がシテの能『善界(ぜがい)白頭』 in 「片山定期能12月公演」@京都観世会館 12月16日

これ舞台のためだけでも京都までやってくる価値があると思わせる能だった。それは、この演者一覧を見たときから十分予測できたことではあったのだけど。シテが味方玄さんというだけでもすでに「決まり」。さらにお囃子の面々のすごいこと、またワキも若手の実力派。京都観世だからここまでの贅沢な舞台が可能なんでしょう。加えて片山九郎右衛門さんの「片山会」の納会なんですからね。期待が裏切られるはずもない。舞台のワクワク感をそのまま持ち越して帰路につけた。

では当日の演者一覧を。

前シテ(善界坊)  味方玄
後シテ(善界坊)  味方玄
ツレ(太郎坊)   河村博重
ワキ(比叡山僧)  小林努
ワキツレ(従僧)  岡充
ワキツレ(従僧)  原陸
アイ(能力)    泉慎也

笛   左鴻泰弘
小鼓  成田達志
大鼓  河村大
太鼓  前川光範

後見  大江信之 小林慶三

地謡  河村和晃 梅田嘉宏 清沢一政 橋本忠樹
    田茂井廣道 橋本礒道 武田邦弘 古橋正邦

概要を例によって銕仙会の「能楽事典」より引用させていただく。

中国の仏教界を乗っ取り堕落させた中国の天狗・善界坊(シテ)は、日本の仏教界をも堕落させようと、京都愛宕山に住む日本の天狗・太郎坊(ツレ)のもとを訪れる。二人は比叡山を標的に定め、魔道に陥れる計画を練る。その後、天狗の所業によって京都では魔が蔓延ったので、勅命により僧正(ワキ)が祈祷を命じられたが、京都へ向かう道中を善界坊(後シテ)に襲われる。しかし僧正の祈りによって不動明王や日本の神々が現れ、善界坊は散々に懲らしめられて虚空へと逃げ去ってゆく。

何ともおかしい、コミカルな話。こういう滑稽な演目は能では珍しいのでは?しかも近松の『国姓爺合戦』ならぬ大陸を股にかけての壮大な規模のものとなれば、一体どんなストーリーになっているか期待が膨らむ。それはあっさりとかわされるんですけどね。期待外れということではなく、予想外の展開ということで。単に舞台が大陸と日本にまたがっているだけで、内容は純ジャパ。作者は竹田法印定盛という室町時代の医者らしい。きっと彼は想像をうんとたくましくして異国の「支那」を仕立てたんでしょうね。そして彼なりに解釈したエキゾチシズムを入れ込んだ作品に仕立てようとした?「支那の天狗」なんてのははあからさまに「日本製」。だから、作者の元の計略はずれてしまっている。とはいうものの、なぜこういう背景にしたのかは、別問題。興味が湧く。平安期の『和漢朗詠集』が出てきた背景と共通したものがあった?

といった風に、見る側に色々な想像を掻き立てる狂言であることは確か。それを演じてみせるのには、演者側にかなりの力量が要請されるだろう。味方玄さんはその要請に応えられた。むしろそれを超えた何かを提出されて幕入りされたように思えた。「?」の留保をもたせながらも、どこかですんなりと納得させられている。そういう舞台に仕立て上げておられた。こういう技(ワザ)に泣いてしまうんですよね、素人の私は。ナント憎い!って。これにどう対処すればいいんだよ!って。未だ対処の仕方は見つかっていません。能の優れた舞台のなにものにも代え難いところは、まさにここにあるような気がする。永遠に到達できない「答え」をちらすかせながら、焦らしながら、すっと消えてしまう。残るのは実際にあったかどうかもわからない余韻のみ。

この余韻だけのために能の舞台を見続けて行くような、そんな予感に怖れをなしている。