『野宮』は『源氏物語』の重要な登場人物の一人、六条御息所を扱った演目。六条御息所がシテで出てくるもう一つの有名な作品は『葵上』。『葵上』では後場に六条御息所が鬼女となって登場、舞台正面に置かれた小袖を打ち据えるという凄まじいシーンにクライマックスが来るのに対し、『野宮』の御息所は鬼にならない。車争いへの言及をするものの、そこに激しい憤り、悔しさは見られない。ただ源氏との昔を偲び、懐旧の念を舞いに託しつつ去ってゆく。まさに御息所の美しさと気品とに相応しいものとなっている。
以下、能『野宮』の概要。
晩秋の9月7日、旅僧がひとり、嵯峨野を訪れ、伊勢斎宮の精進屋とされた野の宮の旧跡に足を踏み入れます。昔そのままの黒木(皮のついたままの木)の鳥居や小柴垣を眺めつつ参拝していると、榊を持った上品な里女が現れます。女は、僧に向かい、毎年必ず長月七日に野の宮にて昔を思い出し、神事を行う、ついては邪魔をしないで立ち去るようにと話します。僧が、昔を思い出すとはどういうことかと尋ねると、かつて光源氏が、野の宮に籠もっていた六条御息所を訪ねてきたのがこの日だと告げ、懐かしそうに御息所の物語を語ります。そして、自分こそが、その御息所だと明かし、姿を消してしまいました。
別に現れた里人から、改めて光源氏と六条御息所の話を聞いた僧は、御息所の供養を始めます。すると、牛車に乗った御息所の亡霊が現れます。御息所は、賀茂の祭りで、源氏の正妻葵上の一行から、車争いの屈辱を受けたことを語り、妄執に囚われている自分を救うため、回向して欲しいと僧に頼みます。野の宮での源氏との別れの記憶にひたりながら、御息所は、しっとりと舞い、過去への思いを深く残す様子で、再び車に乗り、姿を消しました。「野宮」は鬘物のなかでも、大曲とされています。源氏物語に材を取り、主人公は六条御息所です。秋の嵯峨野の哀愁に満ちた風情のなか、昔を懐かしむ御息所の深い切なさや、辛く悲しい恋の妄執といった心のうねりを、優雅にしっとりと、そして品よく描いた曲です。
六条御息所は、「葵上」でこそ、生霊になるほどの嫉妬心の持ち主として描かれましたが、源氏物語では、知性と教養溢れる魅力的な淑女とされています。そのように高貴で聡明な女性でも、寂しい境涯に置かれ、心の奥底で嫉妬、妄執を養うこともあるのです。人の世に生きることの悩みの深さ、思いの深さが沁みてきます。
ここにすべて言い尽くされている。でも「ちょっと待って」となった。というのも、『源氏物語』で描かれている御息所は『葵上』でのものに近いから。例の賀茂祭りでの葵の上一行との車争い。それは彼女のプライドをこれ以上なほど傷つけた。彼女の源氏の正室、葵上への怒りは鎮まらない。彼女は産褥にあった葵上に生霊となって取り憑き、ついには彼女をとり殺してしまう。さらには源氏が通っていた夕顔にも取り憑き、こちらも殺してしまう。それはまさに『葵上』での御息所像である。もちろん、源氏が草深い野宮を訪れた折には、極めて理性的な対応をする。でも心の裡の焔を宥めることはできていない。斎宮になって伊勢に下向する娘について行くと堅く決意してはいても、それはあくまでも表向き。それとは裏腹に、消そうとしても消しきれない源氏への愛欲に、悶え苦しんでいる。そんな彼女だから、自分の娘がやがては源氏の「餌食」になるのをなんとしても止めたいと思っているのも当然だろう。彼女の不安は的中。京に帰ってきた御息所の娘に、源氏は食指を伸ばす。彼女はやがては源氏と藤壺との息子の冷泉帝に嫁ぎ、秋好中宮と呼ばれるようになるのではあるけれど。源氏も御息所の生霊を「体験した」ので、さすがに彼女の娘に手を出せない。
だから、『野宮』の御息所はあくまでも理想化されたものと考えるべきだろう。この作品での御息所は旅の僧と争わない。普通は霊となって出てきたシテはワキの僧と激しく争う。しかしやがては折伏され、彼岸へと帰って行く。この作品の霊は極めて「紳士的」。折伏されるまでもなく、すでに自分の霊であることをしっかりと認識している。でもこういう穏やかさはどこかつまらない。
「つまらない」というのは言い過ぎでも、ドラマツルギー的には魅力がない。見ている側は不完全燃焼の思いを抱きながらその場を後にするだろう。
ただ、この日の観客は「一門会」というだけあって、ほぼ全員が一門の方々。それもかなり高齢の方々。先生に仕舞いや譜いや楽器を習っている方ばかり(と推察した)。部外者は私だけだったのでは?どこかフリーメイソンの集会を思わせた。ひょっとしたら、能の公演は大なり小なりこういうもの?
能の曲の中で、『野宮』は傑作扱いされているよう。という理由で、これを見ておいてよかった。この後大阪・京都では薪能が目白押し。機会を見つけてできるだけ多くみようと考えている。