『野宮』は味方團さんのシテ、また寺澤幸祐さんのシテで見ているので、私には馴染みがある感じ。とはいえ、片山九郎右衛門さんの六条御息所は、その圧倒的存在感で衝撃だった。絶品の舞台を、その舞台時間を「共有」できる幸せをしみじみ噛みしめていた。
この日の演者一覧を以下に。
シテ 前(里女) 片山九郎右衛門
後(御息所) 片山九郎右衛門
ワキ 旅僧 福王知登
アイ 嵯峨野里人 野村又三郎
小鼓 飯田清一
大鼓 河村大
笛 杉市和
「wakogenji」さんのサイトから概要と詞章をお借りする。以下。
概要
晩秋の嵯峨野の野宮。木枯らしが吹く淋しい頃、ここを訪れた僧の前に現れた女は、「今日は長月七日野宮の神事の日なので、帰れ」と言う。僧の問いかけに「光源氏の愛を失った六条御息所が、斎宮となった娘と共に伊勢へ下ることを決め、御禊の為に野宮に籠っていると、光源氏が訪れ、様々と慰留されたけれども、誠に頼りない源氏の愛情に失望し、御息所は娘と共に伊勢へ下った……」と語る。詳しい物語にいぶかる僧に、名を明かした女(御息所の亡霊)は、黒木の鳥居の辺りに消え失せる。
その所の者の勧めに従い菩提を弔うと、在りし日の姿にて、網代車に乗った御息所の霊が現れる。その車は賀茂の祭の時に、源氏の正妻・葵上との所争いをした恥辱の因縁深い車であり「光源氏と恋に堕ち、捨てられた悲しみが妄執となり、迷宮から離れられない苦しみから救ってほしい……」と頼んで、再び車に乗り、消え去って行く。
以前の記事にも書いたけれど、さすが金春禅竹。深く御息所の心に踏み込んだ詞章になっている。源氏物語に材をとってはいるけれど、決して過去の物語ではない。御息所の葵の上への嫉妬、源氏への執着の目撃者に私たちはされてしまう。抑えても抑えきれないマグマのような妄執が、シテの身体から滲み出る現場を目の前に見てしまう。まるで普通の三角関係のドラマを見せられているような感じさえする。でも演じるのは美しい面をつけ、美しい衣装に身を包み、どこまでも気高く優雅なシテ、九郎右衛門師。
前シテの面は若女、後シテの面も若女。冴え冴えと美しい面。しかし、若い女の清らかさを象徴する面を付けたシテの口から発せられるのは、ドロドロした恨み、怒りである。このギャップが、自身ではどうにも抑制できない自己の妄執の深さと、それを見据えなくてはならない悲しみを表している。今もそこから逃れられないまま、野宮を、果ては伊勢の内宮外宮すらも彷徨い続けている。
野宮は御息所が伊勢の斎宮になる娘と二人で籠ったところ。『源氏物語』では、彼女が伊勢に下ると聞いた光源氏が野宮を訪ねてくるという話になっている。御息所の執着を煩わしく重荷に感じ始めていた源氏。でも、さすがに彼女が娘と伊勢に下ると聞いて、訪ねてきたのだった。それを思い返す御息所の複雑な心中。
その気持ちがより高ぶるのが、例の「車争い」を思い出した時。源氏の正妻、葵の上の乗った牛車と御息所の牛車とがぶつかり、争いごとになる。跳ね除けられ、押し込められてしまった御息所の牛車。それを思い出して、屈辱に身を震わせる御息所。決して忘れることのない悔しさが蘇ってくる。僧にこの妄執からの解脱を願う御息所。
ここから、野宮を御息所が偲んで舞う序の舞になる。やがてそれは破の舞へと転じてゆく。舞台にしつらえた鳥居の外に足を踏み出そうと一歩だし、でもそれを止める。ここでの謡が以下。
こゝはもとより 忝くも
神風や伊勢の内外の鳥居に 出で入る姿は
生死の道を神は受けずや
思ふらんと
また車にうち乗りて 火宅の 門をや
出でぬらん 火宅の門
御息所の所作は、最後の「火宅の門」で唐突に終わる。あまりにも唐突に。舞台上の僧も置いてきぼりを喰っている。僧の祈祷によって煩悩から解放された様子もない。彼女は果たして「火宅の門」を出ることができたのだろうか。それとも・・・・?余韻を残したまま、この曲は終わる。はっきりと明瞭な答えを提出しないまま舞台が終わるのは能では珍しい。でもそれが逆にとても「新しく」思える。禅竹がどういう意図で持ってこういう造りにしたのか。テキストと演出に対する彼の挑戦が見えた気がする。